2013年4月25日 木曜日 山口県大島郡周防大島町伊保田 「陸奥記念館」 | ||||||||||||||||
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時は昭和元禄のまっただなか。
世の人は
星野哲郎作詞の・・・・しあわせは 歩いてこない、ワンツーワンツー♪を歌ったり
農協婦人部は大挙して大阪吹田のバンパクを見に行っていた。
その昭和45年、
呉にある深田サルベージによって海底に眠る戦艦陸奥は引き揚げがはじまった。
昭和18年6月、柱島泊地で謎の轟沈をした世界最大級の戦艦・陸奥。
自爆は終戦まで隠され乗組員には給料も送金され続けた。
吉村昭の最高傑作「陸奥爆沈」でも知られる。
陸奥爆沈はノンフィクションとフィクションの中間小説
柱島の海域。
徳山沖やこの柱島泊地と呼ばれる海域は帝国海軍連合艦隊の停泊地としていたようだ。
自爆地点は柱島と周防大島の中間点で、現在柳井〜松山航路上になる。
陸奥記念館には海底から引き揚げた船体の一部や、将兵の身の回り品。
それに遺族から提供された手紙や資料が主に展示されていた。
陸奥が一番栄光の時の写真。艦上にはまだ、御大典まえの大元帥。
いちばん期待されていたころの写真。
40cm砲は威力あるが、
戦果は何一つなかった。
8年間に渡った海底からの引き揚げ作業。船体の3/4が陸揚げされ、今なお1/4が海底にある。
乗員は1474人で生存者は353人。
死者は溺死はゼロ、ほとんど全員が爆死。船と共に沈んだ遺体と、浮かんだ遺体があった。
流れ着いた遺体は島々の人たちによって火葬されたようだ。
勲章の展示品。
「支那事変従軍記章」を撮ったのは個人的な理由から。
じつは、父も支那事変に従軍している。
最近母に聞いたら父の兵隊時代の勲章は「まだ持っている」とのことだった。
後日見てみよう。
これが記念館の内部、ほぼ全容。
歴代の艦長の経歴人物表などの他に
兵の制服を展示。
手紙。
親族への手紙の特色は「達筆」な文字が多いこと。
文字力は間違いなく現代よりも数段上。
今の人はメールはしても手紙を書くことなからな。そのうち文字も書けない人がでてくるだろう。
海を向いた戦艦・陸奥記念館。
この陸奥記念館は道路拡張工事の為、ここに移転したそぅだ。
つまり以前の場所が陸奥爆沈により近かった。
道路工事で記念館がなくなった場所へ行く。
このあたり。
3km先海で陸奥は大爆発を起こした。
この真正面の海に沈んだ。
「陸奥の碑」。
その隣に「若鷲の碑」。偶然予科練生が陸奥に実習で140人ほど乗っていた。全員爆死した。
「陸奥の碑」の周辺には引き揚げされたプロペラや主砲が展示されている。
海に向かって自然と黙祷をしてしまう。
そうゆう英霊が住む陸奥記念碑の岬だった。
2013年4月28日