銅像の人  長崎県
 

島原地方の子守唄 

場所・長崎県島原市  島原駅前



長崎県には一度も行ったことが無かった。
2012年に初めて行った。
着いたのは島原だった。
熊本港から船で島原港に行き、島原市に1泊、島原線に乗って去った。


島原市は雲仙岳、島原城、温泉、湧水群、どれも興味深かった。
なかでも、水路と武家屋敷は予想していたとおり趣があり、特に満足した。



(正面に島原城天守閣、背後に雲仙普賢岳)


島原を去ろううと島原駅に行くと、
駅前に赤ちゃんをおんぶした銅像が立っていた。



おどみゃ島原の おどみゃ島原の
梨の木育ちよ
何の梨やら 何の梨やら
色気ナシばよ しょうかいな
はよ寝ろ 泣かんで おろろんばい
鬼の池 久助(きゅうすけ)どんの 連れんこらるばい



民謡は、古くから伝わるので歌詞が方言で、ことがば難しい。
この歌は五木の子守歌のように貧困の歌のようである。
この”久助どん”とは女衒(ぜげん)の人のこと。
女衒は戦後、職業として消滅した。


女衒が歌詞に登場するとは・・・・。
生まれながらの悲しい環境下の親や赤ちゃんを唄っている。
絶望するような意味の子守歌だ。




(島原鉄道)




撮影日・2012年5月8日



 


織田信長(島原城) 


場所・長崎県島原市城内  島原城跡 「若き日の織田信長」

北村西望の作品。
北村西望は地元長崎県出身の彫刻家、文化勲章受章、享年はなんと103歳。







「室町期」  山崎正和  講談社文庫  昭和60年発行

織田信長

青年期の信長がわざと愚純をよそおい、異様な風態でひとびとの耳目を驚かせたというのは、よく知られた逸話である。
美濃の斎藤道三と初めて会見した時にも、
彼はまず「かぶき者」よろしく、茶筅髪に虎の皮の袴という姿で現れ、いよいよ面会という瞬間に、
一転して粛然たる正装で道三の前にたったといわれる。
道三はこの青年が只者でないという印象を抱かされるわけだが、
こうゆう自己演出のうまさは、信長の生涯にわたって発揮されている。









島原城は壮大な城で、農民の築城の負担が島原の乱の原因になっているといわれる。
来てみると、それが実感できた。


撮影日・2012年5月8日


 
 


天草四郎 


場所・長崎県島原市  島原城






「私説・日本合戦譚」 松本清張  文春文庫 1977年発行

島原の役

寛永11年から3年間、九州の涯、島原領と天草領では凶作がつづき、飢饉がおこった。
14年の春からは餓死する者がふえた。
麦も出来ず、夏は、旱魃で田は地割れし、苗一本育たない。
盗賊が横行して人心が動揺し、不安は高まった。
不安に流言はつきものだ。流言は流言を生み、人々の恐怖をさらに煽った。

将軍家光の病状も入っている。
実は死亡したのではないかという風説がたった。
家光の不例を背景にして、紀州さまが謀反をおこされるの、牢人衆が一揆をおこすのという評判が伝わった。

九州ではさらに不思議な天然現象がおこった。
秋に入ったというのに、まるで春の花が狂い咲いた。

この地方は、旧領主有馬氏以来、切支丹信仰が民衆の間にしみこんでいる。
次の利用主松倉重政は、過酷な民政をしいた。
今こそわれらは伴天連を信じて、年来われらを苦しめてきた松倉重政と天草島を支配する寺沢家に対して一揆をおこすときだ、と、圧政に苦しむ百姓たちが立ちあがったのが、
そもそも島原役のはじまりだ。

この一揆の総大将として、みなから擁立されたのが、島原領大矢野村の庄屋益田甚兵衛の一子、四郎時貞という美少年だった。








原城

島原の乱、原城跡は、いまはもう一面芋畑です。
丘があり、ちょっとした石垣が残っています。

オランダは、ちょうど平戸に二艘あり、一艘は大急ぎで南へ領海を離れる。
幕府の命令で一艘は砲撃にあたる。いやいやながらでしょう。

「歴史よもやま話・上」  池島信平  文春文庫 1982年発行


天草役は幕府に種々の教訓を得させた。
原城の指揮をとったのも牢人なら、包囲軍のなかでも牢人たちがここぞ出世の機会とばかりに、奮戦している。
大坂の役後、諸大名の改易によって失業した浪人群の脅威を目の当たりに見た幕府は、これ以後浪人取り締まりを厳重にするようになった。

幕府はその実力低下を満天下にさらした。
また、それに劣らず、諸大名の武力低下も暴露された。

世はいよいよ泰平となり、のち幕末の自己崩壊を迎えるのである。







撮影日・2012年5月8日


 
 


怪傑日蓮「喝」


場所・長崎県島原市  島原城
作成・北村西望

この作品の人は、日蓮。






日蓮上人が真剣な表情で説法している姿で、
喝!
「怪傑日蓮」 
という作品。


作者は島原市生まれで、日本を代表する彫刻家、北村西望。
北村西望は長崎の平和像のほか、多くの作品を戦前・戦後につくっている。

名誉市民として、↓(たぶん)日本一多くの自治体に選定されている。
1962年(昭和37年)武蔵野市名誉市民、
1972年(昭和47年)島原市名誉市民、
1979年(昭和54年)南有馬町名誉町民(町の合併後は南島原市名誉市民)
1980年(昭和55年)東京都名誉都民、
1981年(昭和56年)東京都北区名誉区民
1981年(昭和56年)長崎県名誉県民。










撮影日・2012年5月8日


 
 











作成・2021年10月11日 追記・2021年10月20日