銅像の人  長崎県
 

平和の像 

場所・長崎県長崎市
制作・北村西望

















撮影日・2012年5月9日


 


72賢人像 


場所・長崎県長崎市大浦町 長崎孔子廟
制作・















撮影日・2012年5月9日



 
 


三浦環の像 


場所・長崎県長崎市南山手







三浦環

「蝶々夫人」で絶賛された国際的プリマドンナと

明治37年東京音楽学校率。
在学中はピアノを滝廉太郎、音声を幸田延に学ぶ。
陸軍軍医と結婚、その後離婚。
大正2年医学博士と再婚。
翌々年、夫とともにドイツに留学。
大正4年ロンドンで「蝶々夫人」を歌い大絶賛を博した。
その後は欧米各地の大劇場で公演、”マダム・ミウラ”の蝶々夫人は”世界の三大芸術”とまでいわれた。
昭和11年帰国、
昭和12年歌舞伎座で歌い、聴衆は日本人初の国際的プリマの歌に酔いしれた。

「大正クロニクル」 世界文化社 2012年発行






(Wikipedia)

三浦環

三浦 環(みうら たまき、
1884年(明治17年)2月22日 - 1946年(昭和21年)5月26日)は、
日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手。
十八番であった、プッチーニの『蝶々夫人』の「蝶々さん」と重ね合わされて「マダム・バタフライ」と称され、
国際的に広く知られた。



撮影日・2012年5月9日


 
 


上野彦馬生誕地 


場所・長崎県長崎市銀屋町


長崎名所のひとつ、眼鏡橋のたもと近く銅像が立っている。


右の人は坂本龍馬で、写真機を挟み、左の人が上野彦馬。
日本初の写真家だった人。
横浜で有名な下岡蓮杖と同時期の人。






(Wikipedia)

上野彦馬

幕末期から明治時代にかけて活動した日本の写真家(写真師)。日本における最初期の写真家で、日本最初の戦場カメラマン(従軍カメラマン)としても知られる。
号は季渓。家紋は桔梗の二引。

生涯
天保9年(1838年)、長崎銀屋町で蘭学者・上野俊之丞の次男として生まれる。
広瀬淡窓の私塾、咸宜園で2年間学び、後の安政5年(1858年)にはオランダ軍医を教官とする医学伝習所の中に新設された
舎密試験所に入り、舎密学(化学)を学んだ。
同僚の堀江鍬次郎らとともに蘭書を頼りにその技術を習得、感光剤に用いられる化学薬品の自製に成功するなど、化学の視点から写真術の研究を深める。
また、ちょうど来日したプロの写真家であるピエール・ロシエにも学んだ。
その後、堀江とともに江戸に出て数々の写真を撮影して耳目を開き、文久2年(1862年)には堀江と共同で化学解説書『舎密局必携』を執筆する。

同年、故郷の長崎に戻り中島河畔で上野撮影局を開業した。
日本における最初期の写真館であり(ほぼ同時代に鵜飼玉川や下岡蓮杖が開業)、彦馬は日本における最初期の職業写真師である。
同撮影局では坂本龍馬、高杉晋作ら幕末に活躍した若き志士や明治時代の高官、名士の肖像写真を数多く撮影した。

維新後の明治7年(1874年)には金星の太陽面通過の観測写真を撮影(日本初の天体写真)、
明治10年(1877年)には西南戦争の戦跡を撮影(日本初の戦跡写真)、
同年に開催された第1回内国勧業博覧会で受賞するなど、その写真は歴史的、文化的にも高く評価されている。

一方で海外に支店を持つ(ウラジオストク、上海、香港)など写真業繁栄の傍ら後進の指導にもあたり、
明治37年(1904年)、長崎で死去。享年67。







撮影日・2012年5月9日


 
 
日本二十六聖人

場所・長崎県長崎市西坂町   日本二十六聖人殉教地


長崎駅前、そこから徒歩5分で西坂公園がある。
西坂公園は、日本二十六聖人殉教地。
聖トマス小崎はじめ二十六人が、この地で刑死した。


(長崎旅ネット)

豊臣秀吉によるキリシタン禁止令により、1597年2月5日京阪地方へ伝導していたフランシスコ会宣教師6人と日本人信徒20人が処刑された丘です。
キリストが十字架に架けられたゴルゴタの丘に似ていることから、信者達がこの地を処刑の場に願い出たのだといわれており、
二十六聖人の殉教以降も多くの人々が“火あぶり”“水責め”“穴吊り”といったむごい手段でもってこの地で処刑されました。
戦後、原爆の破壊から立ち上がった長崎は殉教地であった小高い丘を公園にかえ、昭和31年、長崎県はこの丘を史跡に指定。
26人の殉教者が列聖して100年目の昭和37年に二十六聖人等身大のブロンズ像嵌込(はめこみ)記念碑と記念館が建てられた西坂公園ができました。
また、昭和25年(1950)には、ローマ教皇・ピオ十二世がこの地をカトリック教徒の公式巡礼地と定めています。
1950年バチカン指定公式巡礼地、県指定史跡







殉教

殉教はキリストの十字架の犠牲にならう最高の信仰の表明です。
自分が死ぬことだけでなく、キリストにならう、かつ多くの人の救いになるということです。

二十六聖人は、ローマ法王庁で殉教が認められて、聖者の列に加わった。
原城で戦ったキリシタンは殉教と認められていません。
十字軍もそうです。
抵抗して戦ったからで、無抵抗でなければ認められません。

「歴史よもやま話・上」  池島信平  文春文庫 1982年発行







(日本26聖人記念館)
ようこそ、日本26聖人記念館へ!

日本二十六聖人記念館は、
フランシスコ・ザビエルに始まる日本とヨーロッパの出会いから生まれたキリシタン文化と、キリスト教に対する迫害によって殉教した人々のメッセージを紹介する施設です。
記念館がある、この西坂の地では、1597年から17世紀中ごろまで、キリスト教徒であるために、多くの人々が処刑され、殉教しました。
かつての日本に、信仰の自由を奪った時代があったということです。
二度と繰り返してならない歴史に思いを巡らし、平和を願う場所へ、ぜひお越しください!
記念館では、日本に最初にキリスト教を伝えたザビエル神父像が、あなたをお迎えします。





撮影日・2012年5月10日











作成・2021年10月11日 追記・2021年10月15日