銅像の人  高知県
 

坂本龍馬(桂浜) 

場所・高知県高知市  桂浜
制作・本山白雲
設置・昭和3年


坂本龍馬像
世界を目指した風雲児
年 1928年(昭和3年)

桂浜から太平洋を見渡す龍馬像は、高知一の観光名所といっても過言ではないだろう。
右手を胸にしまったお決まりのポーズ。
高知の青年有志が寄付金を募って建立し、1983年(昭和58年)に修復された。
毎年命日の11月前後の2ケ月間、像の脇に展望台が設置され、
竜馬と同じ目線で太平洋を眺めることができる。

「日本の銅像完全名鑑」 廣済堂出版 2013年発行






龍馬像の変遷--戦後によみがえる像

龍馬の場合、彼の歴史的位置というものは、ほとんど無きに等しかった。
小学校の教科書でも、明治の元勲というのは
木戸孝光、西郷隆盛、大久保利通の3人で、その後はいきなり
伊藤博文、山県有朋という明治国家のつくり手たちが登場する。

時おり、たとえば中等学校の漢文読本に、
「妻は病床に伏し、子は飢えて泣く」という梅田雲浜の詩が載る。
これが幕末の志士を象徴しているくらいでした。

明治国家が薩長のものであった。
それ以外の変な人物たちは、歴史の中の困り者にすぎない、ということだったのでしょう。
龍馬は共和思想の匂いの濃い人物だったのがマイナスだったかもしれません。


「歴史の中の日本」  司馬遼太郎 中公文庫 昭和51年発行








坂本龍馬像
世界を目指した風雲児


桂浜から太平洋を見渡す龍馬像は、高知一の観光名所といっても過言ではないだろう。
右手を胸にしまったお決まりのポーズ。
高知の青年有志が寄付金を募って建立し、1983年(昭和58年)に修復された。
毎年命日の11月前後の2ケ月間、像の脇に展望台が設置され、
竜馬と同じ目線で太平洋を眺めることができる。

「日本の銅像完全名鑑」 廣済堂出版 2013年発行




有名な桂浜の像は、龍馬がまだそれほど有名でなかった1926年に当時の早稲田大学生で、
後に社会運動家となる入交好康の呼びかけで募金運動が始まり、28年に除幕された。
1934年に完成した京都円山公園の龍馬と慎太郎の二人の像は太平洋戦争中の金属回収で失われ、62年に再建された。
桂浜の像は除幕式に海軍が関係し、軍部が反対したためか、回収を免れた。

「銅像歴史散歩」 墨 威宏 ちくま新書  2016年発行




坂本龍馬
1835〜1867
幕末の志士。
高知生まれ。
万延2年(1861)武市瑞山(半平太)の土佐勤王党に参加。
翌年脱藩して勝海舟の塾に入り、
海軍航海術を学び、長崎で薩摩藩の保護の下で亀山社中(のちの海援隊)を経営して海運業に従事。
中岡慎太郎らとともに桂小五郎と西郷隆盛の間を斡旋し、薩長連合を成立させる。
「船中八策」をまとめ、大政奉還を実現させたが、京都近江屋で中岡とともに暗殺された。

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行




撮影日・2015年2月28日





 


山内一豊 


場所・高知県高知市丸ノ内


山内一豊

高知城を造ったのは山内一豊である。
山内一豊といえば、妻のへそくりで名馬を買ったことで男をあげ、
掛川五万石の城主にまで出世したことで有名なあの山内一豊である。
一豊は徳川家康にもうまくつかえ,慶長5年(1600)に土佐一国二十万余石を与えられたのだ。
その一豊が10年かけて造ったのが高知城。

一豊の銅像は、この前の戦争の時に供出され、長らく不在のままだった。
それが、平成8年に再建され、追手門をくぐる前の、県立図書館の前に建っていた。
武具をつけ、槍を持って馬に乗る勇壮な銅像である。

それにしても面白いのは、
戦争の時に、一豊の銅像は供出されたのに、竜馬の銅像は供出されなかったということである。
追手門をくぐってすぐ広場の一角に、板垣退助の銅像がある。
そして、石段をあがっていった三の丸跡の広場の隅に、一豊の妻千代と馬の銅像がある。
説明を読むとこれは、高知商工会議所の婦人会が建てたものだそうだ。

いづれにしろ、
どうも高知の人は銅像好きである。
人材が多く出た、ということもあるのだろうが、あちこちに銅像があるのだ。


「銅像めぐり旅」 清水義範著 詳伝社 平成14年発行








山内一豊

高知城を造ったのは山内一豊である。
山内一豊といえば、妻のへそくりで名馬を買ったことで男をあげ、
掛川五万石の城主にまで出世したことで有名なあの山内一豊である。
一豊は徳川家康にもうまくつかえ,慶長5年(1600)に土佐一国二十万余石を与えられたのだ。
その一豊が10年かけて造ったのが高知城。

一豊の銅像は、この前の戦争の時に供出され、長らく不在のままだった。
それが、平成8年に再建され、追手門をくぐる前の、県立図書館の前に建っていた。
武具をつけ、槍を持って馬に乗る勇壮な銅像である。

それにしても面白いのは、
戦争の時に、一豊の銅像は供出されたのに、竜馬の銅像は供出されなかったということである。
追手門をくぐってすぐ広場の一角に、板垣退助の銅像がある。
そして、石段をあがっていった三の丸跡の広場の隅に、一豊の妻千代と馬の銅像がある。
説明を読むとこれは、高知商工会議所の婦人会が建てたものだそうだ。

いづれにしろ、
どうも高知の人は銅像好きである。
人材が多く出た、ということもあるのだろうが、あちこちに銅像があるのだ。


「銅像めぐり旅」 清水義範著 詳伝社 平成14年発行










撮影日・2007年8月11日

 
 


板垣退助 


場所・場所・高知県高知市丸ノ内







板垣死すとも

土佐の藩兵を率い、戊辰戦争の優秀な指揮官だったです。
すぐれた軍人とも言えるだろうと思います。


薩長土肥の雄藩連合で徳川幕府を倒したが、政府の中枢は薩長だけがうまいところをさらった。
むしろ薩長藩閥を倒すため、おれたちは自由民権運動にいくんだというところもある。

板垣が傷を受けたのは明治15年で、明治14年には大隈重信が追われて肥前がなくなった。
明治の元勲というものは、みな薩長だけが占めてしまう体制が確立するのです。

板垣は非常に清貧です。
清貧で長生きしました。
ヒゲなんかが、また特徴のあるヒゲですね。
百円札なり、お礼に使用されるのにはいい人物ですね。
相撲が好きで、太刀山を富山から連れてきて相撲取りにした。
晩年は、相撲協会の理事長みたいなことをしていました。


彼の本領は、やはり一代華族論ですね。
ほかの連中が、華族になれば非常な特権ですから、なかなか恋々として、これをうけついでゆく考えでした。
子孫は親父さんの意志を継いで爵位を辞した。気持ちがいいですね。
戦後、華族がなくなってみると、いよいよ彼の主張はすぐれていると私は思うのです。


高知では、ちゃんと銅像も新しく立てられたり、戦前には板垣会館まであったのです。
残念なのは、大学を作っておけばよかったのですよ。
板垣大学とか自由大学とか。惜しかったですね。


「歴史よもやま話」  池島進平  文春文庫  1982年発行











撮影日・2018年3月24日

 
 


長宗我部元親 


場所・高知県南国市 岡豊城
建立・1999年(平成11年)




長宗我部元親像

「鬼若子」と呼ばれた四国の覇者

土佐の国人だった長宗我部国知価親から領地を継ぎ、1代で四国を統一するまでに成長。
その後、豊臣秀吉に敗れ、土佐一国の支配者になる。
元親は初陣まで「姫若子」と呼ばれるほど貧弱だったが、後に鬼武者へと変わり、
「鬼若子」の異名をとった。


「日本の銅像完全名鑑」 廣済堂出版 2013年発行









土佐一国は、ひょんなことから尾張出身の山内一豊が授かった領地である。

土佐にいたもともとの武将は、長宗我部元親だった。
その人物がほとんど一代で土佐全土どころか、四国の全土を平らげたのである。
それなのに、秀吉と戦って敗れて土佐一国に押し込められ、後に、
家康によって家をつぶされたのだ。

そういうところへ、一豊は赴任してきたのである。

「銅像めぐり旅」 清水義範著 詳伝社 平成14年発行












撮影日・2018年3月24日


 
 













作成・2021年10月10日  追記・2021年10月20日