銅像の人  高知県
 

ライオン宰相浜口雄幸 

場所・高知県高知市五台山  「五台山公園」


浜口首相は歴代総理でも指折りの高貴な人と思えるが、不運な首相でもある。
首相在任時期が世界不況と重なったこと。
岡山へ発つとき、東京駅で銃撃され退陣(その後死亡)したこと。







「首相列伝」  学習研究社  2003年発行

浜口雄幸

官僚出身ながら、その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれ、
謹厳実直さもあいまって強烈な存在感を示しつつも大衆に親しまれた首相が、浜口雄幸である。

浜口が政治家として過ごした大正から昭和初期は、激動の時代だった。
この激動を乗り切って首相の座に登りつめたのは、浜口の実直さや正義感、頑固さを高く評価して
彼を押し上げたいった周囲の政治家・財界人たちの期待の結果である。
浜口は大蔵省入省、
その後有能さを後藤新平が財界入を口説き、さらに政治家となってからは加藤高明が自身の腹心として重用した。
やがて蔵相を歴任した。
憲政会の幹部として影響力を増していった。


国際協調といわれる軍縮に賛同するする姿勢が終始一貫していたのは注目される。
海軍は88艦隊確立のため、国防費増額を主張していた。
特にアメリカが国際社会の中で早晩一番の大国となるのは明らかであり、
「我が国の貧しさを以って米国に追従せんことを到底思ひも寄らず」、
「我が国は英米二国の海軍力に追従することを能わず」とまで述べている。


日本の国力を知る浜口は、米英との対決は不可能であることを理解していた。
大戦後、
戦争から平和へ、軍拡より軍縮へ、積極財政から軍縮財政へ取り組んだ。
幣原喜重郎外相を重用して国際協調路線を貫いた。








「軍国日本の興亡」 猪木正道 中公新書 1995年発行


ロンドン会議


加藤寛治軍令部長と水次信正次長の反対意見は、必死の努力によって東郷元帥や伏見宮ならびに軍事参議官たちを動かした。
しかし浜口首相は会議決裂の危険をおかすことはできないと言明した。
「これは自分が政権を失うとも、民政党を失うとも、また自分の身命を失うとも奪うべからざる堅き決意なり」
という浜口の言葉には、悲壮な覚悟が示されている。

この浜口の決断を、
元老西園寺公望、内相牧野伸顕、宮内大臣一木喜徳郎、侍従長鈴木貫太郎ら昭和天皇のまわりの人々はこぞって支持した。
海軍の長老山本権兵衛と斎藤実(朝鮮総督)の両大将も浜口首相に賛意を表している。

しかし、後に艦隊派とよばれることになる反対派は
いったんは同意しながら、帷幄上奏を決意した。

浜口内閣の軍縮政策に対しては、世論は一般に好意的であった。
しかし右翼団体と政友会は猛然と反対した。


統帥権問題

昭和5年4月21日、第5回特別議会が召集されると、いわゆる統帥権問題がにわかに重大化した。

統帥権とは、
大日本帝国憲法に「天皇は陸海軍を統帥す」とあるのをいう。
加藤軍令部長が不満を持っていることに乗じて、右翼ばかりでなく、
野党の政友会までが、浜口内閣の統帥権干犯を弾劾しはじめた。

「用兵の責任にあたっておる軍令部長は、この兵力量では国防はできないと断言している」と、
犬養政友会総裁は声を励まして質問した。
政友会の大幹部鳩山一郎は、
「国防問題は統帥府の責任であり、政府が変更するのは、一大政治的冒険だ」と迫った。
もともと日和見主義的な鳩山一郎は論外として、

日本の立憲政治を確立するため生涯を捧げてきた犬養毅が、
常備兵器の決定まで国務大臣の輔弼事項から閉め出そうとしたことは、
惜しんでも余りある。


張作霖の爆殺事件に露呈された陸軍の軍国主義化は、海軍軍令部の不満と連動して。不穏な空気を醸成した。


なお、浜口首相銃撃犯人・佐郷屋留雄は、「陛下の統帥権を犯した。だからやった。何が悪い」と供述した。
判決は死刑→(恩赦)無期→出所→戦後右翼団体で活動。天寿を全うした??


撮影日・2018年3月24日

 


ジョン万次郎 


場所・高知県土佐清水市足摺岬

マサチューセッツ州にフェアブンの対岸にニューベッドフォードという町があり、
アメリカ東海岸きっての捕鯨基地で栄え、盛時には300隻を越える捕鯨船がいたという。
現在は捕鯨博物館があり、
19世紀の捕鯨船が400トン程度の帆船で、クジラを捕まえると油を煮出しして樽に詰め、
2〜3年の航海を続けたあと、数千樽の鯨油を積んで基地に帰ってきた。
莫大な利益をもたらしたので、東部の市民は争って捕鯨船に投資した。
ジョン万次郎を救出したのは、そうした捕鯨船の一隻である。

「日本史探訪18」 角川書店編 角川文庫  昭和60年発行







鎖国が行われるまでの日本人は、朱印船が南方の海を往来していたように、
あるいは伊達政宗が造らせた船が太平洋を二度も横断していたように、
すぐれた造船術と航海術をもち、遠く海外まで進出していた。

ところが幕府のきびしい鎖国政策は、帆柱が1本、帆が1枚といった貧弱な船で、磁石一つをたよりに航海するといった程度で、
とても海外へのりだすどころの話ではなかった。

だがそのような鎖国時代において海外の事情を知る唯一の機会があった。
”漂流”がそれである。
冬がはじまるころ、日本近海を吹き荒れる季節風は、ほとんど定期的に漂流民をつくりだした。
その多くは永遠に帰ってこなかったが、わずかに幸運にめぐまれた人は日本に帰ってきた。

天保12年(1841)鰹漁に出たまま漂流した土佐の万次郎も、アメリカ船に助けられて嘉永12年(1852)に帰国した。
彼は日本人ではじめて英語をおぼえ、帰国後はアメリカの社会事情をいろいろと報告している。

「教養人の日本史4」  現代教養文庫 社会思想社  昭和42年発行




アメリカ捕鯨業

18世紀の初め、英領アメリカで抹香鯨の捕鯨が始まる。
抹香鯨の頭部には、脳油と呼ばれる油が詰まっている。
捕鯨母船に数隻のボートを積み、30人程度の乗組員で航海しながら鯨を追っていた。
長期の航海を余儀なくされ、母船も次第に大型化され300〜400トンに達した。

母船のマストにいる見張りの合図により漕ぎ出し、銛を打ち込んで疲れさせ、槍でついて仕留めた。
1820年頃ホーン岬経由で太平洋に進出し、重点は太平洋に移る。
1846年には735隻に達し、
当時アメリカの捕鯨業は、南部の綿花とならぶ重要産業だった。

「くじら取りの系譜」 中園成生  長崎新聞新書  2001年発行










「日本史探訪18」 角川書店編 角川文庫  昭和60年発行

ジョン万次郎

ジョン万次郎は文政10年(1827)、足摺岬に近い中浜村に生まれた。
生家は代々の漁師であった。
万次郎は鰹釣りの手伝いなどをして家計を助けていた。
高知城下に近い宇佐の浦の漁師筆之丞の持ち船に、5人の仲間と土佐湾に出魚、
三日目、嵐に巻き込まれ黒潮に乗って東へ東へ流され、無人島に漂着した。
伊豆鳥島である。
アホウ鳥を食べて命をつなぎ40日余り、アメリカの捕鯨船に救助される。

船長は年少の万次郎の才能を見抜き、4人をハワイにおろし、万次郎一人をアメリアカに連れていった。

捕鯨船の一等航海士になり、
1850年、ゴールドラッシュのカリフォルニアで資金を貯め、ハワイに渡った。
まず琉球に上陸、鹿児島に行く。斉彬に会う。
長崎に行く、そこで取り調べ。
高知で吉田東洋から尋問。
江戸へ召喚され、老中・阿部正弘以下川路聖謨、江川太郎佐衛門らの前で海外知識を開陳した。
その2年後、ペリーが来航する。

やがて土佐藩の士分に取り立てられ、名を中浜万次郎信志と改めた。


足摺岬の近く、遠く太平洋のかなたフェアブンを望んで建つ万次郎の銅像は、
開成学校教授時代の姿を模して作られたものという。
その手には三角定規とコンパスを持っている。
海外事情に飢えていた幕末の日本にとって、万次郎の帰国は最大のセンセーションであった。


1870年(明治3年)、普仏戦争が始まり、
明治政府はこの戦争を観戦させるため大山巌、品川弥次郎らの一行をアメリカ経由でヨーロッパに派遣することとなった。
中浜万次郎もこの一行に加えられた。

20年ぶりに見るフェアブンの町は大きく変わっていた。
あの活気ある港町の喧騒はうそのように消え去っていた。
万次郎43歳、船長65歳。

この旅行から帰って間もなく、万次郎は病に倒れ、以後人々に忘れられたままひっそりと余生を送った。

アメリカに着いた時、・・・元来日本語の読み書きはできない。
アメリカを去る時、日本語を忘れた。
晩年ハワイから来た牧師から、船長へ手紙を出さないかと言われ顔色が一瞬輝いたが、
書こうにも、もう英語がわからない状態になっていた。






撮影日・2018年10月2日

 
 


山内一豊の妻(高知城)


場所・高知県高知市丸ノ内


維新の英雄が出た高知には、まだ銅像も多い。
桂浜の坂本龍馬、室戸岬の中岡慎太郎をはじめ、
山内容堂、岩崎弥太郎、ジョン万次郎・・近代の吉田茂まで、西日本一と思える銅像の宝庫。
高知城に行けば、もちろん”内助の功””良妻の鏡””良妻賢母”の
『功名が辻』のお人の像もたつ。







「戦国武将100話」 桑田忠親監修 立風書房 1978年発行

山内一豊といえば、その夫人の内助の功のエピソードであまねく名を知られている。
一豊が織田信長に仕える軽輩だったころの話である。

安土の城下で東国一というふれこみで、すばらしい馬が売りに出た。
織田家中の侍たちのいずれもがその見事さに驚嘆したが、さりとて値が高く、誰も手が出ない。
一豊とて例外ではなかった。それどころか、生活さえかろうじて成りたつ貧乏暮らしだった。
妻の千代は「このお金をお使いください」といって鏡箱の底から黄金10枚をとりだして一豊の前にさしだしたのである。
一豊は驚喜し、すぐにかの馬を買いにいった。

やがて京において馬揃えが盛大に行われたが、一豊の乗馬は断然人々の目をひき、
信長も驚きの声をあげ、これをきっかけに一豊は出世の道を歩みはじめた。








撮影日・2018年3月24日


 
 


善財童子像



場所・高知県高知市五台山  















撮影日・2018年3月24日

  




 
 













作成・2021年10月11日  追記・2021年10月15日