銅像の人  高知県
 

中平善之丞 

場所・高知県津野町
浜田浩造 1985年



中平善之丞は、江戸中期の大庄屋で、
農民を救おうとしたが、藩は打首にした。義民。

津野町は、高知県のたいへん奥深い村。


中平善之丞
1709〜1757
困窮する農民を助けるため自ら藩庁に窮状を訴えたが捕えられ、宝暦7年に打首となった(「津野山騒動」)。
義に倒れた彼の精神は郷土に生き、明治維新の志士たちに影響を与えた。

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行






(Wikipedia)

中平 善之丞
なかひら ぜんのじょう

宝永6年(1709年)〜 宝暦7年7月26日(1757年)は、江戸時代中期の一揆指導者。

経歴・人物
土佐高岡郡津野山郷の北川庄屋の長男として生まれる。
その後元文3年(1738年)高岡郡梼原村の庄屋・中平弥左衛門の養子となり、のち家督を継ぐ。

宝暦2年(1752年)土佐藩第8代藩主山内豊敷は、財政窮乏を打開するため、
国産方役所を設置および国産問屋を復活させることにより、和紙の原料となるコウゾや茶などの専売制強化を推し進めた。
津野山郷ではコウゾや茶を主に栽培していたが、専売制強化により安く買い叩かれるようになり、買い付けの停止を藩に請う。
しかし弾圧されたため、宝暦5年(1755年)津野山の農民は善之丞を頭取に立て藩に強訴する(津野山騒動、津野山一揆)。
のち捕らえられ、指定問屋蔵屋利左衛門とともに死罪なり、斬首された。


善之丞の死後、宝暦10年(1760年)藩は国産問屋を廃止する。
藩主の山内豊敷は高知城内に善之丞を祀った祠を設けた。
のち明治19年(1886年)津野山郷にて大暴風雨があり善之丞の祟りであると言われ、
翌年の明治20年(1887年)高知県高岡郡津野町高野に善之丞を祀った風神鎮塚が建てられた。
また、塚から国道197号を挟んだ反対側には「中平善之進像」が建てられている。










撮影日・2018年10月1日


 


谷干城 



場所・高知県高岡郡四万十町窪川 (四国霊場37番札所・岩本寺の参道脇)







高知県四万十町HPより
「西郷を止めた男 谷干城(たにかんじょう・たてき)」


西南戦争
明治10(1877)年に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において、西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱である。
明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、現在日本国内で最後の内戦である。

新政府、討伐軍を派遣
西郷軍の邀撃に動くため、当時、情勢不安定だった九州を安定させる役割で派遣されていた谷干城が熊本城で反乱軍を迎え撃った。

熊本城籠城作戦
この戦いが雌雄を決する最大の前哨戦とされた。兵力差は歴然だったが大方の予想に反し、干城率いる政府軍は五十余日に寄る籠城により勝利をおさめる。

西南戦争での功績なども有り、日本における重鎮となっていった干城。
明治17(1884)年には学習院院長に就任し、子爵を授けられている。
明治18(1885)年、第一次伊藤博文内閣で初代農商務大臣に抜擢。在任中の欧米視察では、欧州の実情や行政の実学を学び、帰国後は欧米をまねる外交政策や農民への酷税などの見直しを求めた。
帝国議会開設後は、貴族院議員として、国民の困苦を顧みない政策や日露戦争など、国を危うくする戦争などに反対。論客として政界・言論界に影響を与え続けた。








「私説・日本合戦譚」 松本清張  文春文庫 1977年発行

西南戦争

さすがの薩軍も、この堅城には攻めあぐねた。
薩軍は攻城に必要な重火器も持たなかった。
これでは堅固な城が落ちるわけはない。

こうしてもたもたしているうちに、政府軍は着々増援軍を送り、筑紫平野を南下させた。
また、八代に上陸して薩軍の背面を衝く。
薩軍を南北から挟撃する態勢に出た。

こうなると薩兵も、兵力を三分しなければならなくなった。
薩軍は、その戦闘の中心を田原坂の防御に求めた。






撮影日・2018年10月1日



 
 


仮屋忠男 


場所・高知県土佐清水市旭町 鹿島公園








(よさこいネット)

仮谷忠男像  かりやただおぞう
志半ばで倒れた、努力と信念の大臣
1913年5月30日〜 1976年1月15日

鹿島公園から、右手を胸前に掲げて清水港沖の海を見渡しているのは、高知県土佐清水市以布利出身の政治家・刈谷忠男の銅像である。
三木内閣の建設大臣に就任した後、本四連絡橋架設、激じん災害対策緊急整備事業の制度化などに尽力したが、
その激務に志半ばで倒れた彼を偲び、ゆかりの人達の声掛けによって県内外に寄付を募り完成に至った。










撮影日・2018年10月2日

 
 


海軍特攻兵 (震洋) 


場所・高知県香南市夜須町住吉海岸  "震洋隊殉国慰霊碑" 


第二次大戦中、まったくの無駄死といえば、まっさきに吉村昭の『陸奥爆沈』でも知られる、
戦艦陸奥の謎の沈没、それによる1121名の殉死を思われる。

ここ高知県では終戦の翌日、特攻兵器”震洋”が謎の事故で爆薬が発火して111名が無駄に死んだ。
死んだ特攻兵は、たいはんが予科練生であろうから16歳〜18最くらいの兵士であっただろう。

特攻兵器で死ぬために配置され、終戦により生きて帰るのが決まった翌日の死はあまりに悲しい。








震洋は昭和20年から21年、予想される米軍の本土上陸を阻止する兵器(1人乗り、または二人乗りのボート)。
日本本土の他に、台湾や朝鮮にも配置されていた。

「最終決戦」のために準備された特攻兵器


空からの特攻は、
戦闘機から複葉の練習機まで使われた。
ロケットモーター付グライダーの桜花。
海からの特攻は、
人間魚雷回天、甲標的を改良した「蛟龍」、アクアラング付けた兵士が爆薬の棒でつつく「伏龍」、
主力となったのが、
「震洋」である。

べニア板で造られたモーターボートの艇首に250kgの爆薬を詰め、暗闇を利用して敵艦に体当たりするというものであった。
予科練や予備学生が操縦要員に当てられ、終戦までにおよそ6.200隻が造られた。
「震洋」は本土決戦に備えて九州、四国、関東地方などに配置され、50隻で一隊とする無数の震洋部隊が編成された。
本土決戦が行われなかったが、一部の震洋はフィリピンや沖縄で戦っている。

「日本本土決戦」 新人物往来社 2002年発行








この震洋隊殉死111名の死者数は、比較してみる。
日露戦争の、「日本海海戦」で日本側連合艦隊の死者数が117名。(バルチック艦隊側は4.830名)
太平洋戦争の、「人間魚雷回天」の出撃戦死者数が87名、訓練死を含めると148名。

ここ高知の海軍兵は、
戦果も、武功も無関係での死。
武装解除による軍人で無くなる日の死。
悲劇というしかないが、事故解明がされず二重の悲劇になっている。



昭和20年8月16日、爆死した日本兵で血の海になった海岸。
日本の復興の中心になるはずだった、若い担い手111名が散った。
今年の夏で、その日から76年になる。


撮影日・2012年4月4日



 


青柳裕介像

場所・場所・高知県高岡郡中土佐町久礼




中土佐町久礼を全国区に

青柳裕介像

漫画『土佐の一本釣り』で久礼の名を全国的に有名にした、漫画家・青柳裕介氏。
彼の功績を称えた石像が、久礼の海を見渡すふるさと海岸に建っています。

(中土佐町の観光パンフレット)







日本埋立浚渫協会HP

カツオの名産地は?
大方の答えは高知県ではないだろうか。実は、水揚量を基準にすると、全国約29万tのなかで高知県は2万tに満たない程度で、主なところでは静岡県が約7万t、その他、三重県や宮城県が多い。

藁を燃やしてタタキにするという独特の調理法が、高知県をカツオの名産地として知らしめることになったことは確かだろう。
そして、もうひとつ、これも確かと思われる要因がある。昭和52年から「ビッグコミック」で16年間にわたり連載された大ヒット漫画「土佐の一本釣り」の影響である。


「いごっそう」が愛した港町
 この作品は、中土佐町久礼を舞台に、中学校を卒業しカツオ船に乗り組んだ、純平という少々古風でケンカっ早い少年が主人公。海に生きる男たちのなかで悩み、壁にぶつかりながら一人前の漁師になっていく姿をさわやかに描いた。1歳年上の恋人・八千代との愛や周辺の人間群像、土佐の純朴で豪放な風土などが、人気を
び、映画化もされている。

 舞台となった久礼港は、小さな港だが、漫画の影響でカツオ漁の基地として知られるようになった。
高知市から南西へ47km、東は土佐湾に面し他の三方を山に囲まれた中土佐町では、山々の尾根の先端が太平洋に突き出して複数の岬を形成し、岬のあいだには小規模な天然の良港が点在する。
久礼港はそのうちのひとつだ。地元のカツオを「日本一」と自負する町の中央には、地物の魚が並ぶ久礼大正町市場があり、町の台所として大勢の人々が集まる。そんな風景が毎日見られる、生粋の漁師町である。
しかし、久礼港のカツオの水揚量は年間わずか200?300t程度。実際は椎茸や木材の流通をメインとした商業港である。
県内にはれっきとしたカツオ漁港はいくつもあるにもかかわらず、この港町が作品の舞台に選ばれたのは、作者である故・青柳裕介氏の「いごっそう」(高知の方言で頑固者)を地で行ったこだわりである。










撮影日・2021年12月23日




 











作成・2021年10月11日  追記・2022年1月12日