銅像の人  高知県
 

中岡慎太郎(室戸) 

場所・高知県室戸市    (室戸岬)
制作・本山白雲
設置・昭和10年



中岡慎太郎
1838〜1867
土佐安芸郡の生まれ。
万延2年土佐勤王党に加盟。
元治元年(1864)金門の変の政変後、脱藩して長崎へ逃れ、倒幕を呼びかける。
坂本龍馬とともに薩長連合に尽力。
慶応3年(1867)京都で海援隊を組織して高知藩を倒幕へ導く。
近江屋で龍馬とともに刺客に襲われ2日後に死亡した。

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行









【室戸市役所】

中岡慎太郎は、海援隊長の坂本龍馬とともに活躍した明治維新の勤王の志士。
慶応3年11月15日(1867年)京都河原町の近江屋で刺客に襲われ、龍馬とともに落命。
この時慎太郎は30才。

この像は昭和10年安芸郡青年団が主体となって建てられました。
室戸岬の先端近くに太平洋を見据えるように建っています。







(Wikipedia)
没年 1867年12月12日(29歳没)
没地 日本の旗 京都
活動 倒幕運動
藩 土佐藩脱藩
所属 陸援隊
受賞 贈正四位
廟 京都霊山護国神社(霊山墓地)

中岡 慎太郎
(なかおか しんたろう、天保9年4月13日(新暦・1838年5月6日) - 慶応3年11月17日(新暦・1867年12月12日))は、
日本の志士(活動家)。陸援隊隊長。名は道正。通称ははじめ福太郎(福五郎とも)、光次、のち慎太郎。
号は遠山・迂山など。変名は石川清之助(誠之助)など。
坂本龍馬らと共に薩長同盟の斡旋に尽力するも近江屋事件で横死した。
贈正四位(1891年(明治24年)4月8日)。









撮影日・2012年4月4日


 


武市半平太  


場所・ 高知県須崎市浦ノ内 「武市瑞山銅像」
制作・原寛山
設置・昭和61年



土佐の最下級武士の岡田以蔵が、いわれるまま「人斬り」をして、最後には虫けらのように磔刑で死んでゆく。
命じる武市に仲代達也、以蔵に勝新太郎、薩摩の人斬りに三島由紀夫が出演した。
話題作で公開時に映画館で見たが、印象深い活劇映画だった。







「歴史の中の日本」 司馬遼太郎  昭和51年  中公文庫

武市半平太ーー映画「人斬り」で思うこと


橋本忍氏が、拙作の『人斬り以蔵』という短編を参考にされ、
五社英雄監督とともにひとつの映画世界をつくられたのが映画「人斬り」である。
私は参考人程度である。
脚本を読んでみると、さすがにおもしろい。


陰謀と暗殺、
これに手を染めた者は、洋の東西を問わず歴史の審判はおそろしく悪い。
暗い不浄者の扱いをうける。
明治後、東京の土佐人の間で「土佐の吉田松陰」などとその死後の名を顕揚されたことがあったあが、
その評価は一般化しなかった。
松陰がもっている独特の文学性と思想性が武市に欠けていたことにもよるが、
最大の欠陥はかれが暗殺団を組織し、その黒幕になっていたということであった。

罪状否定のまま武市は腹を切らされるのだが、
切腹は、江戸三百年のあいだこれほどみごとな例はなかったかもしれない。
武市の革命家としての暗さは、人柄のよさと、
この最後のみごとさによって一挙にすくわれているような感じである。

つまるところ、武市らを首領に岡田以蔵らがやったテロリズムというのは、
武市が期待した効果などは少しもなく、白痴の政治活動におわったし、
むしろ大反動をまねきよせたという点で、逆効果の方が大きかったようにおもわれる。
テロというのは、本来、そういうものなのである。









撮影日・2012年4月4日

 
 


シェイクハンド龍馬像 


場所・高知県高知市浦戸城山 「坂本龍馬記念館」前
建立・2011年11月


龍馬と握手ができるので、人気があるように見えた。








薩長同盟


日本を大きく変えた「薩長同盟」は、龍馬の尽力によって成立した。
では、その内容は具体的にはどういうものだったのか?

「言った、言わない」の水掛け論になる恐れがあると思ったのか、
桂はそれをわざわざ龍馬宛の手紙に書いてきた。
だから、今でもその内容がわかる。
それは六ヶ条である。

一・長州と幕府の戦いが始まったら、薩摩は2.000人の兵を出して京を固め、大阪にも1.000人の兵を出すこと。
一・長州の勢いが強ければ、薩摩は朝廷に働きかけて早期講和を成立させること。
一・万一長州が敗けていても半年や一年はもちこたえるので、薩摩はその間に援護の作戦を考えること。
一・幕府軍が敗退したら、薩摩は朝廷に働きかけて、長州の冤罪を取り消させること。
一・一橋家や会津藩・桑名藩が朝廷を利用しないよう、薩摩が監視すること。
一・薩長は力を合わせて皇威回復を実現すること。


「英傑の日本史」 井沢元彦  角川学芸出版 平成22年発行










撮影日・2012年4月4日

 
 


坂本龍馬(生まれた町) 


場所・高知県高知市上町 「龍馬の生まれた町記念館」


高知市の電車通りに「龍馬の生まれた町記念館」があり、
その周辺は市の中心であるが、町は江戸時代や明治の面影が残されている。





「龍馬史」 

磯田道史  文芸春秋 2010年発行

土佐に移住した坂本家は、4代目の八兵衛の時代に高知城下の上町(かみまち)に進出して、質屋業を営むようになります。
のちに酒造業や呉服商などにも事業を拡大し、寛文年間(1661〜1673)には、高知城下屈指の豪商となっていました。
才谷屋がどれほどの資産家であったかを正しく評価するのは難しいのですが、いわば、
高知のトップ銀行に匹敵する実力でしょう。
屋敷の間口は8〜9間、奥行は10間の大土蔵構え。
数棟の酒造が立ち並び、10人以上の使用人がいたといいます。

坂本家の屋敷は約500坪の広さで、これは通常500石クラスの上級武士の武家屋敷に匹敵する広さです。
豪商才谷屋は6代目八郎兵衛のときに郷士株を手に入れ、郷士坂本家が誕生してます。








「歴史よもやま話下」 池島信平編  文春文庫 1982年発行

明治維新の志士たち
坂本龍馬


文久の頃は、だだ勤王だ、攘夷だ、とにかく外国を打ち払うというところで、倒幕を意識していません。
第三期になると、倒幕が大きな力になってくる。

幕府を叩きつぶせ、武力をもって倒幕しろというような西郷や長州の意見と、
将軍に大政を奉還させて、穏やかに新しい政府をつくる。
そのどっちか?のなかで、
坂本は,大政を奉還させて平和的に解決した方がいいという方向が強い。
大政を奉還させ、列藩会議を起こしてというプランでしょう。








「英傑の日本史」 井沢元彦 角川学芸出版 平成22年発行

勝海舟と坂本龍馬は、はじめからぴたりと息があった。
名コンビは、日本に海軍を作るための神戸海軍操練所設立に向かって邁進する。
勝はみずから幕府軍艦咸臨丸の艦長となって、アメリカに行ってきた。


亀山社中

龍馬と神戸海軍操練所で航海術を学んだ同志は、操練所の解散によって薩摩藩の保護下にはいった。
メンバーは長崎に行き、薩摩藩の援助の下に独立組織をつくった。
宿舎がある亀山から亀山社中という名前になった。
社中は、英語のカンパニーの訳語だったようだ。

ジャーデン・マセソン商会のグラバーから大量の新式銃を買い入れた。


 「英傑の日本史」 井沢元彦 角川学芸出版 平成22年発行









【高知市役所】HP

龍馬の生まれたまち記念館

龍馬が生まれ育った高知市上町に開館。
龍馬が土佐藩を脱藩するまでの少年,青年時代のエピソードを映像や音声で紹介しています。
龍馬の生まれたまち記念館を起点として、
高知市内に点在している坂本龍馬ゆかりの史跡等をめぐる「龍馬の生まれたまち歩き 土佐っ歩」もあります。
また、観光ガイドボランティアによる記念館内の案内もできます。
龍馬が過ごした時代を想像し,当時を偲ばせながら町並みや路地をゆっくり散策してみては。






撮影日・2015年2月28日


 
ウルトラマン 

場所・高知県高岡郡四万十町琴平町 四万十町役場




四万十川沿いの町、窪川に行くと役場に「ウルトラマン」がいた。
なぜ窪川にウルトラマンがいるのだろう?





窪川駅にはウルトラマン列車がいた。
この一両車両の列車で宇和島駅まで乗った、
乗車時間は2時間半ほどだが、
そのうち半分以上はワンマン運転手でワンマン乗客だった。






土讃線の利用促進にウルトラマンを活用しているようだ。




撮影日・2021.12.23















作成・2021年10月11日  追記・2022年1月12日