銅像の人  愛媛県
 

鶴姫(宮浦沖) 

場所・愛媛県今治市大三島町宮浦


刀に鎧兜での戦の場に、女性がいるのは、映画や漫画ではよくある話だが、実際にはないように思う。
しかし長い歴史上では、少数の人がいたとしても不思議ではない。

そう思って誰がいたかな? 頭をふりしぼる。

木曽義仲の夫人、巴御前は有名だな。
他には・・・、
会津戦争の中野竹子。娘子隊のリーダー。
後はつづかない。

巴御前と中野竹子に共通するのは、”若い”、”賢い”、”美人”、”戦死”である。
女性が武勇で歴史に名を残すハードルは高い。






瀬戸内海の大三島(おおみしま)には”鶴姫伝説”がある。
鶴姫もまた、若い・賢い・美人・戦死、と四拍子そろっている。
さらに悲恋が加わる。


鶴姫像は、大山祇神社の玄関である宮浦港にある。


鶴姫様は海の中。
伝説では、戦国時代に水軍を率いて、散々大内軍を負ったそうだ。









撮影日・2009年3月21日



 


鶴姫(藤公園) 


場所・愛媛県今治市大三島町  「藤公園」



まだ橋がないころ、
大三島の宮浦港への旅客船は風情があった。
船が着くと住民やお参りの人が大勢乗り降りしていた。

橋ができて大山祇神社への参拝は、ほぼ全員が陸路となった。
そのため、港から神社への参道はさびれていった。

大型バスの駐車場の近くに「大三島藤公園」ができた。
公園には”藤棚”と”鶴姫像”ができた。
GWに「藤まつり」が開催されている。







(Wikipedia)
鶴姫 (大三島)

鶴姫(つるひめ)は、戦国時代の伊予にいたとされる伝承上の女性。
1966年(昭和41年)に小説『海と女と鎧 瀬戸内のジャンヌ・ダルク』が発表されてから知名度が上がった人物で、
同書が出版されるまでは小説の舞台である大三島の島民さえも彼女のことを知らなかった。
鶴姫は、現在では大三島の観光業に大いに利用されるコンテンツとなっているが、その実在性をめぐり疑問や指摘、批判も挙がっている。

鶴姫は、大山祇神社の娘で、兄に大祝安舎(やすおく)と安房(やすふさ)がいたとされる。
彼女の生涯は、たびたび大三島に侵攻した周防の大内氏の軍勢に対して兵を率いて立ち向かい、交戦してこれを撃退するも、
最期は戦死した恋人・越智安成(おち やすなり)の後を追って自殺したという「鶴姫伝説」として知られている。











撮影日・2009年4月29日

 
 


伊佐庭如矢 


場所・愛媛県松山市道後温泉
制作・



場所・愛媛県松山市道後温泉

明治22年、温泉郡道後町が発足。初代の町長さん。





NHKテレビの人気番組「ブラタモリ」によれば、
この町長さんが道後温泉本館を建築し、路面電車の敷設を市街地→道後・三津浜→道後敷設に尽力したそうだ。












撮影日・2021.12.25

 
 

藤谷豊城像 


場所・愛媛県伊予市灘町
制作・


萬安港(ばんあんこう)

波止普請は、海難事故防止と産業振興の両面から当地方の人々にとって長年の夢であった。
村方その他の自分によるものを「自普請」と呼んだが、この波止普請は「自普請」で、忽那島から石材を、高ノ川村から材木を購入した。
天保5.6年完成。
築造により郡中は飛躍的に発展を続けた。
又、港内への土砂の堆積を防ぐため堀り積み上げたのが五色浜グランドの粥喰山。
文化9年から昭和29年頃まで140年余に亘り、当地方の発展の源はこの港にあった。

「郡中まち歩き」  伊予市商業協同組合 令和3年








「郡中まち歩き」  伊予市商業協同組合 令和3年


藤谷豊城

第6代郡中町長。
町内各神社を合祀して五色浜神社を造営。
現在の五色浜プールの東側に魚付林の松を植栽した。
碑の文字は秋山好古、撰文は伊予鉄社長井上要。
立像は太平洋戦争中に金属供出された。
昭和48年、現在の胸像を建立。









撮影日・2021.12.24





 
 
岡部仁左衛門 

場所・愛媛県伊予市灘町



岡部仁左衛門

黒住教郡中教会所は明治10年現在地に創立された。
境内には岡部仁左衛門像がある
花かつおの創始者岡部仁左衛門は、昭和35年逝去した。
氏の功績を称え黒住教郡中教会所境内に銅像が建立され、
昭和38年5月盛大に除幕式が行われた。








郡中の削り節

大正5年、岡部仁左衛門は郡中港の近隣で削り節を創業。ヤマニ。
大正6年、城戸豊吉は郡中港の近隣で削り節を創業。ヤマキ。
大正7年、明関友市は郡中港の近隣で削り節を創業。マルトモ。

「郡中まち歩き」  伊予市商業協同組合 令和3年






撮影日・2021年12月24日













作成・2021年10月10日 追記・2022年1月12日