愛媛県 |
秋山好古 場所・愛媛県松山市 制作・1936年道後温泉に建立→復元 「坂の上の雲の 松山を歩く」 土居英雄 愛媛新聞社 2009年発行 松山城の東、ロープウェイ街の南東部一帯を、徒行町(かちまち)という。 徒歩で戦う下級武士のこと。 秋山兄弟は、この徒行町で生まれた。 好古は5人兄弟の3男、真之は5男だった。 好古は16年間、真之は15年間をこの家で過ごした。 昭和20年7月、好古晩年の家は空襲で焼失。 生家を復元、「秋山兄弟生誕地」は平成17年にオープンした。 好古の騎馬像は、昭和11年に道後公園内に建立された銅像を原寸大で再現したもので、戦時中に供出により失われたが、松山北高校に残っていた1/10のレプリカを元に復元された。 撮影日・2011年7月14日 |
秋山真之 場所・愛媛県松山市 制作・ 「坂の上の雲の 松山を歩く」 土居英雄 愛媛新聞社 2009年発行 真之の胸像。 海上自衛隊幹部学校(旧海軍大学校)に置かれていたものの複製である。 撮影日・2011年7月14日 |
加藤嘉明騎馬像 場所・愛媛県松山市 制作・ 「戦国武将100話」 桑田忠親 立風書房 1978年発行 加藤嘉明は、加藤清正・福島正則らとならんで、賤ヶ嶽の七本槍のひとりにかぞえられた武勇の将だが、 演技臭やハッタリがなく、若くして老成した感がする。 関ケ原役の功によって嘉明は伊予松山20万石から会津40万石の大封に加増されたが、嘉明はこれが不服だったらしい。 加藤家は、子の明成の代に会津42万石を没収されて断絶のうき目を見た。 【加藤嘉明】 三河の出身で、早くから秀吉につかえ、賤ヶ嶽七本槍の功で3千石を与えられ、天正13年淡路で1万5千石、 朝鮮の役では水軍として出動。 慶長2年には巨斎島で敵船を奪取した。 関ケ原役後、伊予松山城を築く。 後会津42万石に転封。 寛永8年(1631)没す。69歳。 撮影日・2011年7月14日 |
正岡子規 場所・愛媛県松山市道後湯之町 「春や昔15万石の城下かな」 と俳人正岡子規が詠んだ松山市は、 瀬戸内海に面した気候温暖、美しい風光に恵まれた土地で、愛媛県の中心地であり、四国第一の都市である。 この地に城を築いたのは、賤ケ岳七本槍の一人として活躍した加藤喜明である。 築城と同時に城下町も整備された。 それが現在の松山市街地の基礎になった。 喜明は1627年会津へ転封され、蒲生忠知が入部。在城7年で没し、伊勢国桑名城主松平定行が15万石で入部。 以来、松山は松平家15万石の城下町として栄え、明治維新を迎えた。 「日本の城下町10四国」 ぎょうせい 1981年発行 坊ちゃんと子規の町 松山藩士の子に生まれた正岡子規は、短歌・俳句の近代化を果たしたが、 夏目漱石との交友はさらにわが近代文学史上に大きい足跡を残した。 東大生時代の漱石は学友だった子規の松山宅をたずねてその文学的影響を受けた。 のち漱石は旧制松山中学の教師を1年間つとめたが、その松山時代を小説化した『坊ちゃん』が,文壇へのデビュー作となった。 その作中の多くの舞台が、いまでは松山市の観光名所になっている。 「日本の城下町10四国」 ぎょうせい 1981年発行 撮影日・2021年12月25日 |
xxxx像 場所・愛媛県xx市xx町 制作・ 撮影日・xx年xx月xx日 |
作成・2021年2月20日 追記・2021年10月17日