銅像の人  島根県
 

若槻礼次郎 

場所・島根県松江市殿町







「島根県の歴史」 内藤正中 山川出版社 昭和44年発行

宰相若槻礼次郎

”末は大臣・大将か”ということは、立身出世の最大目標であり、
この目標にむかって青年の若い情熱がかきたてられた。
そうしたなかで、大正15年(1926)10月30日に島根県出身の若槻礼次郎が総理大臣として内閣を組織したことは、島根県民にとって大きな刺激となり、
一つの努力目標にもされたのである。

若槻は”平民宰相”といわれたように、
松江藩の足軽という身分の低い家に次男坊として生まれて身をおこした
立志伝中の人である。

かれは窮迫の中で中学校も中途退学し、代用教員になって家計をたすけた。
かれは星雲の志やみがたく、法学校(のちの第一高等学校)の生徒募集があったのを好機に、代用教員を止めて上京した。
郡長をしていた若槻家に養子にいくことによって学費の問題を解決した。

一高をおえ、ついで東京帝国大学法学部を首席で卒業し、明治25年(1892)に大蔵省の役人となった。
こうして政府官僚への登竜門がひらかれた。
官僚になってからはトントン拍子の出世で、43歳の若さで大蔵次官に栄進する。
大正元年長州閥の総帥である桂内閣では、大蔵大臣として入閣した。

大正3年加藤内閣の内務大臣、
ここで普通選挙法の成立に尽力する。
かれの態度は民主主義の前進を意図したものではなかった。
米騒動・小作争議・労働運動・社会運動に対処するための方便として、
普通選挙法の成立を考えていたのである。
「普通選挙を実施しなければ、国民は不平不満を発して、国家は由々しき現象を来す」と、
アメに対するムチとして、
同時に治安維持法が提出されることになる。







大正15年1月、加藤首相病死のあとを受けて、総理大臣に就任した。
だが、金融政策に失敗して、銀行取付けさわぎの中で、わずか1年3ヶ月で崩壊してしまった。

昭和6年に、浜口首相にかわって総理になった。
二度とも親分のあとをつぐタナボタで、いつも残務整理型の特徴をもっている。
ともあれ、満州事変の処理をめぐって内閣が統一できず総辞職となる。





撮影日・2014年9月29日





 


母の像 


場所・島根県松江市殿町 「護国神社」

絵本に出る戦争未亡人を、構図そのまま銅像化したかのようだ。

靖国神社にも同じ像がある。









撮影日・2014年9月29日


 
 


松平直政騎馬像 


場所・島根県松江市殿町





根県Web

松平直政


徳川家康の孫に当たる直政は、越前松平家初代藩主の結城秀康の三男として近江(滋賀県)に生まれ、青年期まで越前国(福井県)で育ちました。
大坂の陣の功績によって所領を与えられ、松本(長野県)藩主を経て寛永15(1638)年に松江松平家の初代藩主となりました。


大坂冬の陣では、当時14歳だった直政は家督を継いだ兄・忠直の反対を押し切って陣に加わりました。
大坂城外に築かれた出城・真田丸での激しい攻防戦で、攻めあぐねる徳川方の軍勢の中で際だった戦いぶりを見せた直政。
その勇猛さをたたえて敵方の幸村が軍扇を与えたといわれています。


大正時代には地元の彫刻家・米原雲海が制作した騎馬像を元に本丸に銅像が建てられ、現在は島根県庁前庭に復元されています。










撮影日・2014年9月29日

 
 





xxxx像 


場所・島根県xx市xx町




撮影日・xx年xx月xx日






 


xxxx像 


場所・島根県xx市xx町




撮影日・xx年xx月xx日


 













作成・2021年10月10日 追記・2021年10月17日