島根県 | |
耳なし芳一像 場所・島根県松江市 宍道湖畔公園 制作・会沢実 1996年 小泉八雲の「怪談」の主人公「耳なし芳一」。 ”琵琶法師”。 平家物語には、”白拍子”も登場するが、どちらも室町時代ごろ衰退消滅したようだ。 耳なし芳一 小泉八雲の小説「耳なし芳一のはなし」の主人公。 琵琶の名手で盲目の若者。 壇ノ浦で滅んだ平家一門の霊によって弾誦する。 「日本の銅像」 金子治夫 淡交社 2012年発行 撮影日・2014年4月29日 |
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小泉八雲 場所・島根県松江市北堀町 制作・ ラフカジオ=ハーンと山陰 ギリシャ生まれのイギリス人ラフカジオ=ハーンが松江に来たのは、 明治23年(1890)8月30日の夕方であった。 そして1年2ヶ月の滞在ののち、翌24年11月熊本へ向けて去っていった。 アメリアのハーバー書店から派遣されて日本にきたハーンは、文部省の斡旋で、 県立松江中学校の英語教師として、生徒に与えた影響も大きかったが、 ハーンと松江をつよく結びつけたものは、ハーンの生活態度であり、 著作をつうじての紹介にあるといえよう。 「島根県の歴史」 内藤正中 山川出版社 昭和44年発行 撮影日・2014年4月29日 |
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木口小平像 場所・島根観浜田市 浜田護国神社 制作・内藤沖 1932年初建 1961年再建 日清戦争で戦死した日本陸軍の兵士でラッパ手。 死んでもラッパを離さなかった逸話が小学校の教科書に載り、 その報国の精神が国民の模範とされた。 名鑑 今でも子ども向けの偉人伝は、だいたい半分は作り話だが ”軍神”の話となれば、ほぼすべてが軍による創作で、”お国のために、喜んで死ぬ”お話となっている。 この浜田市にある「木口小平像」は再建したもの。 戦後は無用の人物となったが、よく再建できたものだ。しかも小平は浜田に何の縁もない人だし。 木口小平 明治5年(1872)〜明治27年(1894) 陸軍兵卒。岡山県生まれ。 ラッパ手として日清戦争に従軍。 宇品港を出てわずか1ヶ月後、明治27年の夏に牙山の緒戦で撃たれ、22歳で没した。 死んでもラッパを口から離さなかった忠勇美談の兵士として教科書にのせられた。 「日本の銅像」 金子治夫 淡交社 2012年発行 撮影日・2011年10月27日 |
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浅原才市 場所・島根県大田市温泉津 温泉津温泉 制作・ 温泉津(ゆのつ)は”ひなびた”感じがする温泉街としては、日本一のような気がする。 町は重伝建にも指定されている。 その温泉津の温泉街に浅原才一という詩人の像がある。 信仰の詩を人生の後半に書き続けていたそうだ。 如来の御姿こそ かかるあさましき わたしのすがたなり なむあみだぶつ なむあみだぶつ (響流山勝福寺) 〜念仏生活を妙好人に学ぶ〜 浅原才市さん 才市さんは、石見の国温泉津町小浜に、嘉永三年(一八五〇)二月二十日に生まれました。 アメリカの使節ペリイが浦賀に 来て開国を迫った年でした。 十一才の時に両親が離婚、才市さんは母に連れられて実家に帰りました。 やがて母は再婚。 才市さんは、十一歳で大工の弟子として年期奉公に行き、二十歳の頃には船大工の職を持ちました。 酒や賭博など荒っぽい生活をしていました。 四十歳を過ぎてからは下駄作りの大工になりました。 才市さんが四十五歳の時に、父が八十二歳の生涯をお念仏と共に終えました。 その頃から才市さんは「おやのゆいごん、なむあみだぶつ」と、近在のお寺の法座に足を運ぶようになりました。 それから二〇年間が求道に燃えた時期でした。妻のせつさんと御本山参りもし、帰敬式も受けました。 そして六〇才を過ぎた頃よりお念仏の詩が生まれ、六四才の頃よりかんなくずに法悦の詩を書いては夜にノオトに書き写す日課が始まりました。 詩ができると、安楽寺の梅田謙教和上に見て貰ったそうです。 才市さんは昭和七年一月十七日、八十三才でお念仏の生涯を終えました。 撮影日・2011年10月27日 |
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作成・2021年10月10日 追記・2021年10月14日