銅像の人  京都府
 

坂本龍馬と中岡慎太郎像 

場所・京都府京都市東山区円山町 円山公園
製造・1962年(昭和37年)



この銅像は、龍馬と中岡慎太郎の雰囲気がよくでている。強い意志で新時代を見つめているようだ。

円山公園の坂本龍馬と中岡慎太郎像(写真は戦後再建された2代目の像)





亀山社中は危機に陥っていた。
「船を一隻も持たない」海運会社になってしまっていた。
薩摩藩の仲介で、
オランダ商人から汽船を買った大洲藩が、その操船のための人員提供を社中に求めてきた。
これを機に、龍馬は「いろは丸」と名付けた。

後藤象二郎と連携した龍馬は、亀山社中を土佐藩の下部組織に組み入れることに合意し、
これを海援隊と名付けた。
土佐藩所属の軍隊となった。
盟友の中岡慎太郎は陸援隊長になった。


「英傑の日本史」 井沢元彦  角川学芸出版 平成22年発行








中岡慎太郎



龍馬より3歳年下になる。
土佐国安芸郡郡の大庄屋の子に生まれ、長じて武市半平太の弟子となり、土佐勤皇党に加盟する。
しかし、8月18日の政変で攘夷派への弾圧が始まると、さっさと土佐藩を脱藩した。
彼は長州の久坂玄瑞と親しく、その縁で長州に亡命したのである。
この長州三田尻の血で、都落ちしていた七卿の代表三条実美に抜擢され、その衛士つまり直臣になった。

翌年の禁門の変には、久坂玄瑞に同行し浪士仲間のまとめ役(これがのちに陸援隊につながる)として戦い負傷したが
無事生還した。
各藩の士と交流し、薩長を連合させ幕府と戦うべきという気運が盛り上がってきた。


33年の短い生涯

慶応3年(1867)11月15日、
龍馬は当時河原町通りの近江屋を宿舎にしていた。
近江屋は土佐藩邸のすぐそばだ。
龍馬は中岡慎太郎と話し込んでいた。
そこへ刺客がやってきた。
刺客は「こなくそ」と叫んで中岡を斬り倒した。
龍馬は床の間の刀に手を伸ばそうとして後ろを向いたところ、さらに頭から背中にかけて斬られた。
それでも刀をつかみ鞘のまま防戦したが、今度は腰を斬られて動けなくなった。
ピストルもあったのだが不意をつかれて使うひまがなかった。
龍馬はその場で絶命し、中岡は二日後に没した。

天はこの若者に「薩長同盟」「大政奉還」という大仕事を実行させるために地上へ下し、
用が済んだらすぐに召したということだろう。
それが坂本龍馬という英雄の最も大事な特徴である。

「英傑の日本史」 井沢元彦  角川学芸出版 平成22年発行





撮影日・2006年11月23日


 


田辺朔郎 


場所・京都市左京区南禅寺草川町


琵琶湖疎水で有名な田辺朔郎。



【京都市公式】京都観光Navi

田辺朔郎
たなべさくろう
土木工学者。琵琶湖疏水の設計、工事監督者。
江戸生まれ。工部大学校卒業とともに京都府御用掛となり、疏水工事を完成。水力発電所設置を成功させた。
東京帝国大学教授。のちに京都帝国大学教授。第2疏水、水道など京都市三大事業にも尽力。
墓は東山区、市営大日山墓地。
蹴上公園に銅像。
1861(文久1)〜1944(昭和19)






明治2年の「東京遷都」によって、急速に衰退した京都復興のため、
第3代京都府知事北垣国道は、琵琶湖と宇治川を結ぶ水運を開き、
同時に上水道、水力発電、灌漑、防火などに利用する琵琶湖疎水の一大プロジェクトを計画した。
工部大学校(現・東大工学部)を卒業したばかりの田辺朔郎を、工事責任者に起用した。
この琵琶湖疎水工事は、設計も工事もすべて日本人による初の大土木事業であった。
古都京都は、いち早く近代化に着手し、このプロジェクトから日本初のさまざまな事業を展開している。


琵琶湖と京都市の標高差は約40mあり、琵琶湖疎水はこの標高差を利用した総合計画である。
第一疎水は明治18年(1885年)に着工され、明治23年に鴨川落合まで完成した。
大津市三井寺前の取水口から蹴上に至る。
蹴上は船溜まりで、ここから南禅寺船溜まりまで船はインクラインに載せられた。
第二疎水は電力需要と上水道のために明治41年に着手45年に完成した。
蹴上浄水場は、このとき造られた。
汚染防止に全線暗渠とされた。
この疎水の水は、水道水の他、発電、防火など京都市民の生活を現在も支えている。

「近代の産業遺産をたずねる」 日本修学旅行協会 山川出版社 2011年発行















撮影日・2010年4月8日

 
 


龍馬とお龍、愛の旅路 像 (伏見) 


場所・京都府京都市伏見区



「歴史と人生と」 綱淵謙錠  中公文庫 昭和55年発行


伏見・寺田屋の養女お竜(おりょう)といえば、伏見奉行の手の者に襲われた坂本龍馬と三吉慎蔵の危機を、
機転をもって助けたことで有名である。

慶応2年(1866)1月23日の深夜、龍馬らが二階の座敷で寝に就こうとしていたとき、
裏階段から息せききって入ってきたお竜に、急を知らされた。
そこで龍馬はピストル、三吉は槍で、警吏との修羅場が展開されるわけだが、このときのお竜が素っ裸だったといわれている。
お竜の後日談によると、濡れた肌に袷(あわせ)を一枚ひっかけたことになっているが、
おそらく湯殿の窓から外を眺めて捕吏の存在に驚き、素肌に手拭ももたずに階段を駆け上ったものと思われる。
当時の女性としては想像することすらできない姿だったので、
その突拍子のなさがかえって龍馬に気に入り、九州に新婚旅行としゃれこむことになったのであろう。







龍馬の家になった寺田屋

寺田屋事件は、急進倒幕派の薩摩藩士が、同じ薩摩藩ながら守旧派の御老公(島津久光)の命令を受けた人々に斬られたという同士討ちの事件だ。
これによって薩摩の勤皇派は一時粛清された。
西郷隆盛が久光に批判的だったのはこのためで、逆に久光は西郷を憎んで何度も島流しにした。


慶応2年正月、龍馬は高杉晋作から上海みやげのピストルをもらった。
アメリカ製のアーミー銃で32口径6連発。
寺田屋は淀川につながら堀川に面していた舟宿だから、すぐ近くまで舟で行けた。
薩摩藩邸は、ここから数キロのところにある。

そうした中、薩摩藩と寺田屋の関係は良好であった。
血で汚した補償金も払った。
龍馬は一時薩摩藩の保護下にあったから、その縁で寺田屋を定宿にしていた。

1月24日、寺田屋を幕府の伏見奉行捕り方が取り囲み、龍馬を捕縛しようとした。
お涼は裸のまま風呂を飛び出し、龍馬に急を告げたという。
後年お涼は「着物を着ている暇はありませんでした」と答えている。

ピストルで捕り方を撃ち殺した龍馬は、これ以後、
「重大犯人」として幕府に追われることになる。

「英傑の日本史」 井沢元彦  角川学芸出版 平成22年発行










撮影日・2015年2月18日

 
 


角倉了以 


場所・京都市  亀山公園







(Wikipedia)

角倉 了以
(すみのくら りょうい)

天文23年〈1554年〉 - 慶長19年7月12日〈1614年8月17日〉)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての京都の豪商。
朱印船貿易の開始とともに安南国との貿易を行い、山城(京都)の大堰川、高瀬川を私財を投じて開削した。
また江戸幕府の命令により富士川、天竜川、庄内川などの開削を行った。
地元京都では商人としてよりも琵琶湖疏水の設計者である田辺朔郎と共に「水運の父」として有名である。













撮影日・2007年




 
 
中小路宗城像・中小路宗康像

場所・京都府長岡京市天神  長岡天満宮 




宗城さんと宗康さんは親子であり、
現在の神社の整備に、親子とも多大な貢献があったそうだ。









(長岡京市観光協会)

長岡天満宮

ご祭神は,学問の神様として有名な菅原道真公です。
道真公が太宰府へ左遷される途中,かつて 在原業平らと共に詩歌管弦を楽しんだこの地に立ち寄り,都を振り返って名残を惜しんだ事から
「見返り天神」とも呼ばれています。
太宰府にお供した3人が別れ際に戴いた道真公自作の木像を ご神体として祀ったのが長岡天満宮のはじまりと云われています。









撮影日・2015年2月18日













作成・2021年10月9日   追記・2021年10月19日