銅像の人  三重県
 

浦島太郎 

場所・三重県鳥羽市鳥羽  鳥羽港(鳥羽湾めぐり観光船)


浦島太郎は、絵本と童謡で、誰でも知っている。
子どもの時には、
海の中の竜宮城へ行って、呼吸はできるんだろうか?
玉手箱を開けると若者が老人になる、その”変身”ぶりに驚いたり、
めでたし・めでたしで終わらないので、最後がすっきりしなかったり。






隣の市(といっても、海を隔てた)、香川県三豊市も浦島太郎伝説で有名。
荘内半島の先端ふきんをドライブすると、浦島太郎の物語の雰囲気を感じる。
今も静かな浜辺の漁村は、時代の変化をあまり感じさせない魅力がある。

ここ三重県の鳥羽市では、観光船の船主に、飾りで浦島太郎がついている。
デッキには乙姫様やタイやヒラメもいる。

浦島太郎伝説は鳥羽市にはないはずだが、
こと鳥羽観光に、少しでも役に立つとなれば利用したという感じ。
見て違和感はない。










撮影日・2013年6月7日


 


海女と童子の像


場所・三重県鳥羽市鳥羽


漁村に行けば、女性が海に潜って貝や海藻を採り、海女(あま)さんと呼ばれている。
管理人は農村・漁村・山村を併せた村に育ったが、村に漁師はいても海女さんはいなかった。
それに、瀬戸内海地方で海女さんがいたという話は聞いたことがない。
すくなくとも、戦後の貧しい時代でさえ瀬戸内海沿岸に海女さんはいなかった。

なぜ瀬戸内海地方に海女さんはいなかったのだろう?

それと、日本全体でみても海女さん人口が減っている。
将来、日本から海女さんが絶滅してしまう可能性もないとは言えない。





【鳥羽市役所HP】

海女とは

海女とは、素潜りでアワビやサザエ、海藻等をとる漁を生業とする女性たちのことで、他には類のない女性の漁師さんと言えます。
海女の歴史は古く、古代から受け継がれている漁法であるとの研究者の報告があります。
海女漁は、素潜りという独特の潜水技術による漁法で自然なる海の獲物を採り続け、長い時間、持続してきた素晴らしい漁法です。
また、その持続性・継続性には大きな意味があり、地域ごとに厳しく漁期を定めたり、漁獲できる貝の大きさを定めるなど、多くの約束事を決めて、
漁獲対象とする資源を「獲りすぎないよう」、「獲り尽くさないよう」に守り続けているのです。
現在、日本には、約2,000人の海女が現存しています(2010年海の博物館調査)。
そのうち鳥羽市・志摩市には、全国でも最多となる約750人の「海女」が操業しています。
しかしながら、海女を取り巻く環境は、漁獲資源の減少や海女数の減少と高齢化、後継者不足といった厳しい課題に直面しています。


『鳥羽・志摩の海女』が、国の重要無形民俗文化財に指定されました!

平成29年1月27日に開催された文化審議会文化財分科会において、
「鳥羽・志摩の海女漁の技術」として国の重要無形民俗文化財へ指定答申を受け、正式に指定されました。







撮影日・2013年6月7日


 
 


おかげ横丁の猫 


場所・三重県伊勢市 おかげ横丁


毎年秋に、招き猫の祭があるそうだ。







(Wikipedia)

「来る福招き猫まつり」

概要
日本招猫倶楽部が毎年9月29日を「来る福」(くるふく)と読みなして「招き猫の日」と制定したことにちなみ、毎年9月29日前後の土日を中心に、三重県伊勢市、愛知県瀬戸市、長崎県島原市などで開催されている。
期間中、招き猫・関連グッズの販売、現代招き猫作家の作品展示、製作体験のほか、多くのイベントが行われる。

伊勢市おかげ横丁
1995年(平成7年)より、おかげ横丁ではさまざまな催しが行われている。
観光客も参加して「にゃんちろりん♪総踊り」という踊りが行われる。
獅子舞風の「猫舞」も披露される。
飲食店では『来る福ニャンチ』というランチメニューが提供される。数量限定。













撮影日・2013年6月7日

 
 


松阪牛 


場所・三重県松阪(まつさか)市  松阪駅前





(Wikipedia)

日本三大和牛
どの3銘柄かは公式に決まっておらず、それぞれが三大和牛を名乗っている。

近江牛。滋賀県内で肥育された黒毛和種で、雌牛・去勢された雄牛を認証している。江戸時代に彦根藩から徳川将軍家に養生薬の名目で献上されており、歴史的にも非常に由緒がある。併せて、近江商人(日本三大商人の一角)が活躍したことも知名度向上に貢献した。
神戸牛。
松阪牛。三重県の雲出川以南・宮川以北の地域で肥育日数500日以上で雌の処女牛を認証している。1935年(昭和10年)に東京で行なわれた『全国肉用牛畜産博覧会』で名誉賞を受賞し、戦後にブランド牛として認知されるようになった。
米沢牛。山形県置賜地方(米沢市周辺)で米沢牛銘柄推進協議会が認定した飼育者が、登録された牛舎において18か月以上継続して飼育されたもの。







【松阪市HP】

解説・松阪牛の定義

肥育農家では、全国各地から肉牛として優秀な生後およそ7〜8ヶ月の黒毛和種のメス牛を購入し、
松阪牛個体識別管理システムに登録し、肥育します。
登録できるのは、「松阪牛協議会」に入会した農家です。
牛が肥育される地域も決まっています。
市町村合併で市や町の範囲が大きく変わっていますが、
混乱しないように市町村合併前の2004年11月1日(松阪牛協議会の発足日)現在の
22市町村とされています。
この範囲内での肥育が最終最長で未経産(出産していない)であること。
以上の条件を備えた牛が「松阪牛」です。






撮影日・2013年6月7日






 
 

芭蕉

場所・三重県伊賀上野市  伊賀上野駅前


松尾芭蕉(伊賀上野)
伊賀上野は山国である。
伊賀上野駅から南には上野盆地が開け、盆地の中ほどに小高い丘が望まれる。
上野は、この丘の上に造られた小さな城下町。

この城下町に芭蕉が生まれたのは正保元年(1644)、三代将軍家光の時代にあたる。
父は中世以来土着の柘植七党の名家の一党の末流で、
苗字は許されたが帯刀は禁じられ、平百姓並みとなった。
芭蕉は幼名宗房で、上野の町に流行する俳諧に興味を示しはじめた。
俳諧の縁で家老の台所方使用人という勤め口を持つようになった。
いつの間にか上野の俳壇の代表格になった。
大都市に出て専業の俳諧師として飛躍したいと考え、郷里を棄てて大江戸に向かった。

「奥の細道を旅する」  日本交通公社  1996年発行






江戸に出て3〜4年は無名だった。
俳号は「桃青」と改めた。
俳諧宗匠・点者として公認されたが、生計は不如意で神田上水工事の事務職を兼ねる苦労もした。
其角、杉風、嵐蘭など、後に芭蕉門の中核をなす人々が入門していたが、独立後は急に増えた。
桃青は江戸宗匠五指に入る有名人になっていた。

点者という職業に疑問を深めていた。
俳客を奪い合う生存競争、そんな俗悪な俳壇社会に対する疑問と嫌悪がいよいよ高まり、点者稼業を放棄した。
心機一転すべく、都心地から隅田川を越えた深川村に移した。
桃青は「乞食の翁」を自称した。
草庵の庭にバショウがあり、「芭蕉庵」と呼ばれるようになり、第二の俳号として「芭蕉」を用いた。
この芭蕉庵は江戸大火(八百屋お七事件)で全焼する、
このときの心境について門人其角は「無所住の心を発し」と伝えている。

「奥の細道を旅する」  日本交通公社  1996年発行







芭蕉がはじめて文学の旅に出たのは41歳の時である。
それからは小旅行、長期の旅行で旅の空となった。
芭蕉の文学は『奥の細道』の旅を境にして大きく変化した。

芭蕉は自分の志操を高く持ったが、生活的には深川の庶民街の中で名もなき人々とフランクに近所づきあいをする普通の人であったし、
彼らの生活の理解者でもあった。

しばらくの間、実家で静養をつづけた芭蕉はやがて、もっとも深く愛する門人たちの住む湖南と京都を訪れて、
再び伊賀に戻る。
強く来遊を求める便りが届きはじめ、最初に大坂にまわろうとした。
元禄7年9月9日、大坂の門人宅に着いた。
高熱、悪寒、頭痛に襲われた。
しかし、こと俳諧に関しては意欲の衰えを知らず排席に出座を繰り返した。
それも限界にきたようで10月に入ると、急を聞いた近畿各地の門人が続々と駆けつけてくる。
そんな中の10月8日深夜、芭蕉はふと眠りから覚めて、
病中吟
旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる
と一句を吟じ、傍らの門人に書き取らせた。
10日には郷里の兄、江戸の杉風ら主要門人や芭蕉庵の近所衆への永別の言葉を口述して支考に書き取らせた。
それからは身を清め、香を焚いて静かに臥し、12日申の刻、眠るがごとく51年の生涯を終えた。

「奥の細道を旅する」  日本交通公社  1996年発行



「奥の細道」 世界文化社 1975年発行

芭蕉の旅

和歌の西行・連歌の宗祇・俳諧の芭蕉をわが国の三大旅行詩人と呼ぶ。
けれどもこの三人の旅行を分析すると、おのずからその旅の性格を異にしていることがわかる。

すなわち西行は漂泊の旅人である。
宗祇は、風流な大名豪族に招請され、その目的地へ往復する道中であった。
芭蕉は、必ず予めスケジュールを立ててそれによって行動した。


芭蕉は岐阜の長良川の鵜飼いを見てからだろう。
魚肉を取らぬようになったので栄養失調のきざしがあったらしく、とかく不健康で、ついに浪花の宿舎で帰泉した。
旅での死は、芭蕉にとっては満足であったろう。

芭蕉は古典を、古典では味わえない俳諧文を作り上げようとした。
日記、紀行、詩歌、絵巻のすべてがそれで、どれにも成功している。
だから旅には紀行文を書くことを目的の一つにしていたのである。




撮影日・2013年6月8日















作成・2021年10月9日   追記・2021年10月19日