和歌山県 |
刃刺しの像 場所・和歌山県牟婁郡太地町太地 太地町は、紀伊半島に位置する人口3000人あまりの町。 太地町が捕鯨基地として天下にその名前を知られるようになったのは、今から400年以上前のことだった。 古代では積極的に捕りに行くというより、弱ったり傷ついたりして座礁した「寄りクジラ」を利用するのがほとんどだった。 「おクジラさま」 佐々木芽生 集英社 2017年発行 網掛突取捕鯨法 延宝3年(1675)、紀州の太地で突取捕鯨法のなかに網掛過程を導入する。 要するに今までしゃにむに鯨を追って銛を打っていたのを、まず網に鯨を突っ込ませ、 網をからませて速度を落とし銛を打ちやすくしたのである。 これによって遊水速度が速い座頭鯨や長須鯨を中心に捕獲効率が向上している。 「くじら取りの系譜」 中園成生 長崎新聞新書 2001年発行 クジラは餌となる小魚の群れを追って湾内にはいってくる。 シャチに追われて湾に逃げ込む。 突き取り式の捕鯨は17世紀前後伊勢湾、紀伊半島で伝えられた。 紀州太地の和田頼元は延宝3年(1675)に網取り式捕鯨を考案した。 網を用いた捕鯨は世界中で類例がなく、日本独自の発明であった。 クジラの周囲に網を掛けてクジラの動きを鈍らせ、羽刺し(はざし)は銛をつぎつぎとクジラに打ち込んでいった。 捕鯨の効率はずいぶんと向上した。 網を掛けるのでなく、クジラの動きを遮断するために網をつかう場合があった。 網は藁縄で編んだ網の定置網で、魚群と共にクジラやイルカを獲るために設置された。 網の材料が藁から苧麻(からむし・イラクサ科の多年草)へと変化し、網の耐久性が各段に増した。 ・・・・・・ クジラ油は、クジラの脂肪層を煮詰めて得られる。 北米では灯火油。 日本では、稲の害虫を殺すため水田に散布する農薬として重宝された。 文政9年(1826)以降のことである。 牛につくアブを寄せない軟膏としても利用された。 欧米諸国は鯨油を採取する目的で捕鯨を行っていた。 鯨油は、灯火、ろうそくの原料。 室内や街の明かりは原料をクジラに求めたのである。 18世紀に母船上で加工する技術が確立すると、1年以上にわたる長期の捕鯨によって鯨油生産は飛躍的に向上した。 鯨油生産が至上目的とされたので、鯨肉や内臓は海上から投棄する。 19世紀に太平洋に進出した米国捕鯨では、マッコウクジラとセミクジラが鯨油生産を目的として捕獲された。 セミクジラは捕獲時に海底に沈まないうえ、皮や脂肪層から鯨油が多く採れた。 マッコウクジラも鯨油が多く採れるのと、良質の白いろうそくが生産された。 クジラの骨は先史時代から道具として重宝された。 大型の体躯をもつクジラからは種々の道具の原料が得られた。 銛、釣り針、ヘラなどが製作された。 食としてのクジラ 鯨油とともに、鯨肉、脂肪、内臓加食部、の獲得は捕鯨の大きな目的であった。 一頭あたり六割が利用できた。 イカ、サンマ、スケトウダラは、クジラがこのまま増え続けると人間の食糧をクジラと競合する。 推計ではあるが、クジラが捕食する魚類は世界全体で2億〜5億トン、人間による漁獲量9.000万トンをはるかに凌ぐ量である。 「クジラは誰のものか」 秋道智彌 ちくま新書 2009年発行 「おクジラさま」 佐々木芽生 集英社 2017年発行 19世紀なかば、欧米の捕鯨船が日本近海に進出したこともあって、太地でもクジラが次第に捕れなくなった。 そんな中、1878年太地沖でそれまで見たこともないような巨大な親子連れのセミクジラが発見された。 太地の漁師189人は、19隻の船団を組んで出魚する。 クジラとの戦いは、翌朝まで続き、船団とクジラは岸からかなり沖まで流された。 後に生還した人々の証言によると、船団は強い西風に悩まされ、苦労して捕獲したクジラを2日目の夕方には手放して、 必死に櫓をこいで陸を目指した。 しかし天候が悪化し、舟は翻弄され、漂流し、船団は散り散りになった。 100人以上が行方不明になった「せみ流れ」と呼ばれるこの大惨事が、太地の古式捕鯨に事実上終止符を打った。 明治期に銃砲を使うボンブランス法が、さらにノルウェー式捕鯨が日本に導入された。 太地とは 太地町は本州の南端、紀伊半島の東側。 黒潮躍る熊野灘に面し、霊場熊野の山々を後に控える、自然豊かで歴史と文化を継承する港町。 近くには世界遺産登録された熊野古道と霊場、日本一の那智の大滝などみどころもいっぱい。 太地町立の「くじらの博物館」では、小型クジラ・イルカなどとの触れ合い体験など、クジラを中心に新しい町作りに取り組んでいます。 大背美流れ おおせみながれ 明治11年、不漁の年末。 ようやく近づいてきた鯨は、「背美の子連れは夢にも見るな。」といわれる、気性が荒々しく危険な、大きな子連れの背美鯨。 激しい風雨のなか無理を承知で出漁し、夜を徹して仕留めたものの、潮流と荒天で100名以上の村人が帰らぬ人となった、今も語り継がれる悲劇。 和田忠兵衛頼元 日本周辺の海域には昔から鯨が多く、各地では古くから鯨をとリ食料として利用して来ました。太地でも、傷ついたり弱ったりなどして岸辺に寄ってくる鯨をとっていたようです。 慶長11年(1606年)、太地の郷士・和田忠兵衛頼元は、泉州堺の浪人伊右衛門と、尾張師崎(知多半島の南端)の伝次とあい協力し、初めて組織化した捕鯨を始めました。 古式捕鯨発祥の地・太地 太地は古式捕鯨発祥の地として名高く、当地の豪族、和田家一族の忠兵衛頼元が尾張師崎(知多半島の突端)の漁師・伝次と泉州堺の浪人伊右衛門とともに捕鯨技術の研究を進め、 慶長11年(1606年)太地浦を基地として、大々的に突捕り法による捕鯨を始めました。 その後、延宝3年(1675年)和田頼治(のちの太地角右エ門)が網取り法を考案したことによって太地の捕鯨は飛躍的に発展しました。 紀州藩の保護もあって、「捕鯨の本場太地」は天下にその名をとどろかせ、熊野灘の捕鯨は最盛期を迎えました。 しかし、明治に入って西洋式捕鯨法が導入され、鯨の回遊も減少するにつれ太地捕鯨は次第に衰退の途を歩みはじめましたが、 「くじらの町」としての在り方はその後も変わらず、古式捕鯨の伝統を受け継ぎながら近海での小型捕鯨が続けられています。 また、南氷洋捕鯨のキャッチャーボートの乗組員として、町から参加する者も多く、優秀な砲手を多数輩出しました。 近年、国際捕鯨の規制により、太地の捕鯨も厳しい状況を迎えましたが、今までの歴史・伝統を観光面に生かしながら新しい「くじらの町」として発展しています。 太地観光協会 撮影日・2013年6月5日 |
弁慶木像 場所・和歌山県新宮市 熊野速玉大社 弁慶という人物 弁慶は熊野別当弁真の子で、書写山で修業したが、五条橋で牛若を討とうとして敗れ、以後主従となり、 屋島の合戦でも軍功をしばしば立て、義経に従って平泉まで行き、衣川の合戦で討死したという。 その一生は、ほぼ明らかだが、世に彼ほど、伝説を多くもっている人物も少ないのである。 まず,胎内に長くいたという。 生涯に女を知らなかった。又は一度しか知らなかった。 大力で釣鐘を背負って山をおりたという。 最後は川原で立ったまま死んだという。 勧進帳では、義経の前で「つひに泣かぬ弁慶」が「一度の涙」を流す、とこだわっている。 「歌舞伎十八番」 戸板康二 中公文庫 昭和53年発行 撮影日・2013年6月5日 |
紀伊国屋文左衛門像 場所・和歌山県湯浅町 「日本史探訪14」 中田易直・南條範夫 角川文庫 昭和59年発行 紀伊国屋文左衛門 豪遊 たとえば、大門を閉めきる。 当時吉原には遊女が千人ほどおりますから、一夜にして千両ぐらいの資本がかかる、それを二度もやった。 かつてのパトロン、大名・旗本にかわって、文左衛門を筆頭に、元禄成金が黄金をまき散らした。 紀の国みかん船 「沖の暗いのに白帆が見える」 有田みかんの歴史は古く、室町時代に九州から栽培増殖したのが始まりだという。 江戸時代にはいり、紀州徳川家が、みかん産業を保護奨励した。 寛永11年(1634)からみかんの江戸出荷が始まり、まもなくわが国の出荷組合第一号ともいうべき蜜柑方が作られた。 文左衛門のみかん船の話が事実だとすると、彼が20歳前後のころになるが、 このころから有田地方の漁民たちは、冬には荒波を乗り越えて江戸の方まで季節労務に出かけていたことがわかった。 彼らの協力を得れば、20歳の青年の冒険物語は実現可能である。 みかん船の伝説が象徴しているように、文左衛門は、非常に気を見るに敏な、りこうな男である。 派手に投機的な金儲けをした紀伊国屋は,一代で使ってしまう。 みかんは、豊作貧乏の年もあり、今でもあたりはずれがある商品であるが、 紀伊国屋文左衛門が、一攫千金・万金を成し遂げたのはみかんではなかった。 材木である。 元禄時代と言うのは建築ブームで、幕府が放漫な財政によって仏教寺院や聖堂を建てる。材木が騰貴した。 撮影日・2012年10月13日 |
お燈祭り上り子像 場所・和歌山県新宮市徐福 JR新宮駅前 (和歌山県公式観光サイト) 御燈祭り 神倉神社の例祭であり、 当日は祈願人である約2,000人の白装束の「上り子」が神倉山中腹にある神倉神社に集結し、 その後、燃え盛るたいまつを持ちながら一番乗りを目指して、 538段の急峻な石段を一気に駆け下りる勇壮な火祭りです。 (国指定重要無形民俗文化財) (JR新宮駅。JR西日本とJR東日本の境界駅の一つ) 2013年6月5日 |
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作成・2021年10月9日 追記・2021年10月16日