銅像の人  富山県
 

大伴家持 

場所・富山県高岡市 JR高岡駅前








万葉集

『万葉集』はいうまでもなく、日本最古最大の歌集であり、
その成立期間も5世紀から8世紀ごろまでの450年間におよぶ。
天皇、皇族のうた、民衆のうた、それも農民から防人、乞食にいたるまで
社会のあらゆる階層を含み、歌の形式も多様である。
編者も一人ではありえないが、
現在に近い形にまとめあげたのは大伴家持という説が有力だ。
とにかく、当時これだけ幅広く人間と自然の営みを映した文学作品は、
世界のどこにもない。


なにしろ古いものだから”万葉集”の意味さえ定かではないが、
常識的に「多くの歌」ということだろう。
用字法は万葉仮名で、平安時代にはすでに難解とされていた。
第二次大戦中、大伴家持の
「海行かば水漬く屍、 山行かば 草むす屍」
といった部分が悪用された記憶が、なまなましい。

「日本の書物」 紀田順一郎 新潮文庫 昭和54年発行









「富山県の歴史」 坂井誠一  山川出版社 昭和45年発行

国守大伴家持

大伴宿祢(すくね)家持は天平18年(746)越中守に転じ、
少納言に任ぜられるまで、満5年の間、越中に在任した。

大伴氏は代々武将で、武をもって朝廷につかえた名族。
家持が越中に赴任したころは東大寺大仏の建立という大事業をひかえて、橘諸兄と藤原仲麻呂の対立があるなど、重要な時期であった。
家持は諸兄に近かった。

大伴家持は、律令官人としてよりは「万葉集」の選者として著名であるが、父旅人とともに歌人としてすぐれている。
越中の自然は立山・奈呉の浦など「みれどもあかず」彼の詩心をそそるものが多かった。

大伴家持の在任した越中国府は、現高岡市伏木古国府であることはうたがう余地がない。
交通の便と要害をかねそなえている。



撮影日・2015年3月10日




 


高岡大仏 


場所・高岡市  
中野双山 1933年
 



前田利長は,藩内の鋳物師を高岡に移住させ、拝領地を与えるという産業振興政策をとっていた。
高岡は鋳物の街となり、江戸時代には全国の寺の梵鐘を作っているのだ。
そして今は、銅像製造の街である。

高岡市には大仏もある。
高岡大物と呼ばれる15.4mのもので、市街地のど真ん中にある。
今あるものは昭和8年に完成したものだが、鋳物の街高岡をPRするためのものだと言えなくもない。

 「銅像めぐり旅」 清水義範著 詳伝社 平成14年発行















撮影日・2015年3月10日


 


xxxx像 


場所・富山県xx市xx町









撮影日・xx年xx月xx日

 
 


xxxx像 


場所・富山県xx市xx町











撮影日・xx年xx月xx日

  




 











作成・2021年10月8日