銅像の人  石川県
 

勧進帳 

場所・石川県小松市安宅
建立・弁慶と富樫(昭和41年)義経(平成7年)



初めて歌舞伎を見たのは、昭和56年の初代「松本 白鸚」襲名披露だった。
三代(親は白鸚に、子は幸四郎に、孫は染五郎に)が同時襲名の歌舞伎公演で、銀座の歌舞伎座で見た。

その出し物が「勧進帳」で、迫力や美しさに強く感動した。
弁慶と富樫は現・白鸚と現・中村吉右衛門の兄弟が演じたように覚えている。






「勧進帳」
ある著名な文学者が「勧進帳」は日本人の心のふるさとである、といった。
「勧進帳」には、日本人の心の琴線に触れてくるなにものかがあるに違いない。
それはなんだろうか。

武蔵坊弁慶、判官義経、富樫左衛門、この三人の織りなす感情の美しさ。
男としておのれを空しくして他人の立場につくす人間の美しさ。

あの音楽、様式、演出の持つ魅力。
それが一つになって、私たち日本人としての血を呼びさます陶酔をふくんでいる。
まことに心のふるさとに違いない。

弁慶も富樫も命がけである。
その男たちの全身の智恵と力をふりしぼってのかけひきが
このドラマのおもしろさである。
ドラマを美しい音楽的なせりふまわし、
さまざまな美しいポーズによって、音楽的、絵画的に描いた。
その役者の芸がみる者を、陶酔に誘い込む。

「歌舞伎の魅力大辞典」 講談社 昭和54年発行







歌舞伎十八番・勧進帳

「歌舞伎十八番」の中で、『勧進帳』は最も人気のある出し物である。
この狂言に人気が集中する理由は、伴奏をつとめる地の長唄が明曲であることも、大きな理由であろう。

勧進帳のストーリーは、あまりに有名だが『義経記』に若干の脚色を加えてある。
義経という人物は、つねに大衆から愛されてきた。
それは彼が、華やかな英雄であったのちに、一転、遠い北の国で落命するという不幸な末路を伴うためにほかならない。


『勧進帳』で、初歩的な観客にも、たやすく喜ばれるシーンが二度ある。
はじめ、義経一行が出る前の、ヨセの合方の所である。
交響楽のような壮観を呈する。

次に、一旦関所を通れといった富樫が、番卒の助言で、強力を呼び止めてからの短い時間が、
舞台をうまく使った演出で,見ものである。
ここで「方々は何ゆえに」という長唄になり、
舞台に向かって右側、富樫を先登に、番卒、太刀持、
左側に弁慶を先登に、四天王がいて、
律動的に足を運びながら、押し合う動きを見せるのである。
視覚的にもすぐれた場面で、
内容を離れていえば、ここが全曲のクライマックスといってもいいようだ。


富樫が、弁慶のさらにいきり立って義経に向かって杖をふり上げるのをとめ、
「判官殿にもなき人を、疑えばこそ、かく折檻もい給うなかれ」というセリフは、憂いをこめていうのが、
近年十五代目羽左衛門の強調したやり方である。

「歌舞伎十八番」  戸板康二  中公文庫 昭和53年発行





撮影日・2015年8月3日


 


芭蕉と曾良(山中温泉) 


場所・石川県加賀市     山中温泉 



曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云所にゆかりあれば、先立(さきだち)て行に 、
 
行行て たふれ伏とも 萩の原   曾良

と書置たり。
行ものゝ悲しみ、残るものゝうらみ、隻鳧(せきふ)のわかれて雲にまよふがごとし。
予も亦 、
 
今日よりや書付消さん笠の露






北陸道をなおも歩いて山中温泉にいけば、こおろぎ橋がある。
このあたりの大聖寺川の西岸は奇岩が折り重なってつづき、鶴仙渓と呼ばれる。

行基が見つけたと伝えられる、古い温泉場の山中である。
菊の香りもおよばぬほどに、山中温泉の湯はよい匂いだ。
温泉小屋の外からは、山中節の艶っぽい歌声がしんみりと響いてくる。
ハアー薬師山から湯座屋を見れば 獅子が髪結うて身をやつす
シシとは芸者のことである。
四・四の十六、
十六歳になれば女は客席にでられるくらいの一人前になるというところからきた。


「新・おくのほそ道」  立松和平  河出書房新社  2001年発行






山中温泉

山中温泉に浴した。
その効果は有馬に次ぐという。
温泉宿の主というのは、久米之助と言って、まだ少年である。
彼の父は俳諧を好んだ。

芭蕉は7月27日に小松を発って、その夕刻、山中温泉に着いた。
同行は曾良のほかに北枝。
和泉屋という旅館に泊まった。
当主久米之助は、まだ十四歳の少年であった。
ここでは芭蕉もひどく歓待されて、ひどく居心地がよかったらしい。
長旅も終わりに近づいて、ゆっくり疲れをいやしたことと思われる。

「日本の古典に親しむ・奥の細道」 山本健吉 世界文化社 2006年発行








撮影日・2020年1月28日

 


杜若像


場所・石川県金沢市 能楽堂



金沢の街は戦災も受けず、今も加賀百万石の街並みと風情が残り、なんともいえない魅力がある。


金沢の街には
この歌がぴったりくる。歌・詞・曲、三拍子そろった名曲。

謡曲がふるふる 加賀宝生の
木洩れ陽青い 石だたみ
ああ 金沢は 金沢は・・・

「加賀の女 歌:北島三郎 作詞:星野哲郎 作曲:島津伸男」





「石川県の歴史」  下出積興 山川出版社 昭和45年発行


加賀宝生の世界

”加賀へ行くと天から謡曲が降ってくる”、
屋根葺や植木屋が、仕事をしながら謡の一節を口ずさむからだ。

室町時代以来、能楽は武家のたしなみとされていたので、加賀の富樫、能登の畠山によっておこなわれたが、
さかんになったのは江戸時代にはいってからである。
利家は幸若舞の愛好者で、能楽のファンでもあった。
利長も父の資質をうけ神事能をはじめた。
宝生流とのつながりができたのは三代利常のときである。

加賀宝生の伝統の基礎をつくったのは綱紀である。
綱紀は、将軍綱吉の好みにおうじて能を宝生大夫友春(9代)にならった

それだけでなく、藩の能大夫も宝生流に弟子入りさせ、以後は藩内の能楽を宝生流一本に統一する。
さらに綱紀は細工者(工芸職人)たちにシテ方以外の各部門を余技として修練させた。
その上手下手におうじて扶持の増俸があった。
これが、町民各層をはじめ農民にいたるまで能楽を普及させた大きな原因となった。

半面、中世以来の他の芸能はほとんどこのころまでに姿を消してしまった。
幸若はおとろえ、
琵琶法師もうけつぐものはなかった。
歌舞伎は寛永以後は興行されなかった。









撮影日・2016年2月2日

 
 


四高生


場所・場所・石川県金沢市広坂  石川四高記念館



戦前の日本の最高エリートコースである、ナンバースクール→帝大。
そのナンバースクールは、だいたい同時期に設立されたのかと思っていたが、ずいぶん年度差があった。






(Wikipedia)

一高 第一高等学校 1886年(明治19年) 東京都
二高 第二高等学校 1887年(明治20年) 仙台市
三高 第三高等学校 1886年(明治19年) 京都市
四高 第四高等学校 1887年(明治20年) 金沢市
五高 第五高等学校 1887年(明治20年) 熊本市
六高 第六高等学校 1900年(明治33年) 岡山市
七高 第七高等学校 1901年(明治34年) 鹿児島市
八高 第八高等学校 1908年(明治41年) 名古屋市

北海道にはない、
福岡にないが九州には2校ある。










「石川県の歴史」 山川出版社 2000年 発行

明治20年の四高(第四高等中学校)創設は、県民に誇りを植えつける大きな契機となった。
前年公布された「中学校令」による高等中学校の設立は、全国でわずか五校にすぎなかったからである。
この背景には、専門学校および医学部がすでに設置されていたことを前提として、前田家の寄附も含め、
県をあげての猛烈な誘致運動があった。
そうして文部大臣森有礼の臨席を得て、10月開校式が盛大に祝われた。
なお、25年には広坂通りに赤煉瓦の本館・校舎も建設され、以後「学都」金沢のシンボルとなった。
(「四高八十年」)



撮影日・2016年2月2日




 


xxxx像

場所・石川県xx市xx町










撮影日・xx

  












作成・2021年10月8日   追記・ 2021年10月16日