2011年7月14日 木曜日 | 高浜港発 | ⇒ | 興居島由良港着 | 〜 | 興居島泊港発 | ⇒ | 高浜港 |
松山市由良町・門田町・泊町 (興居島・ごごしま) | 8:50 | 9:05 | 12:10 | 12:20 |
由良港に戻る前に船が出港したので、帰りの船は泊港まで行って時間をつぶすことにした。
由良から泊に向かう。
海辺の道を進み峠を越える。
すると湾が見え、海の色もいい港が見えた。
あの、赤い桟橋が泊港だろうか?
なんとも言えないいい色の海。
赤い桟橋に着くと、どうも現在は使用していない港のようだった。
泊港は更に先だ。
(来るとき船から赤い桟橋が三つ見えていた、それでそのうちの一つは未使用とわかっていた)
港周辺は緑地公園になり、そこからは学校が見える。白い建物が興居島小学校・中学校。島内唯一の学校。
港の県道に沿って神社があったので参拝した。
すると、「どちらから来られました?」と声があった。
それは、境内を清掃中のおじさんだった。
立ち話をしていると、乗る船便を聞いてから
「島内を私が少し案内してあげましょう」と言われ、えいちゃんはお言葉に甘えることにした。
神社は興居島の船越という地区で、おじさんはその隣に家があった。
おじさんの車(軽バン)に乗っり興居島めぐりが始まった。
左に少し見えるのが興居島の属島で「釣島」。
古い灯台があり、現在は50人くらいが暮らしているそうだ。
おじさんの車は、細く狭く、しかも雑草に覆われた道を、小冨士の7合目まで登った。
そこからは下って行った。
「恋人峠」で車を止めた。
恋人峠からは伊予灘の絶景が広がっていた。
こんな静かできれいな興居島でも
終戦時に小学1年生だったというおじさんは次のような話をした。
「松山の空襲は夜だった。それで燃えているのがよく見えた。
防空警報が鳴ったら、学校に防空壕はあったけど、家がいちばん安全なといって全員家に走って帰っていた。
ある時(興居島でも)グラマン機が掃射してきた。連続して一直線上に撃ってきた。あの時は怖かった。
(興居島は海軍の航空基地から近い↓、現在の松山空港が海軍跡地)
基地の練習機がグラマンに撃たれ海に墜落したのも見た。練習機なので弾もなく、逃げるだけだって撃たれた。
基地が米軍に攻撃された時は燃料庫が爆発して飛び散っているのを見た。あれはすごかった。」
最後の基地の話を聞くのは二度目だった。
一度目は海軍予科練生だった叔父から、爆撃された時の地響きと爆音、破片のすさまじさを聞いたことがある。
同じ時
叔父は現地で攻撃を受け、おじさんは興居島から見ていた。
恋人峠の下は海水浴場。向こうは三津浜港。
防予汽船のフェリーが行く。山口県の柳井港と四国の三津浜港を結ぶ。
泊港。
おじさんはここで車を止めた。
そして、「興居島にいい印象をもっていただければいいですから」とお礼の言葉しかできないえいちゃんにそう言った。
そして、「船は(二か所を指して)どちらに入るかわかりませんので時間がきたら両方みていてください」と言いながら去っていった。
えいちゃんは、おじさんの車が見えなくなるまで見送った。
泊港も港に沿って集落になっている。
集落のいちばん端にお寺さんが海に出ている。向う側も興居島。
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2011年7月16日