2011年5月18日 水曜日 | バラ園P | ⇒ | 庭瀬・撫川 | ⇒ | 木堂 | ⇒ | バラ園 | ⇒ | 五重塔 | |
岡山市北区川入 「犬養木堂記念館」 | 9:30 | 9:49〜10:41 | 11:30頃 | 12:02〜12:35 | 13:10頃 |
木堂先生の生家隣に「犬養木堂記念館」がある。
平成5年に開館したもの。
その中庭。
これが館の内部。
左右に常設の展示室がある。
内閣総理大臣(1931〜1932)・犬養毅。
木堂先生17才の時、小田県庁に勤務していた。(1872)
35才の時(1890)、・・・・日本最初の衆院議員選・・・衆議院議員に岡山3区から初当選。以後連続19回当選。
咢堂・尾崎行雄と「第一次憲政護憲運動」を行い、藩閥政治からの脱却をすすめた。
普通選挙の成立にも努め、
昭和に施行が決まると政界から引退を決めた。
しかし、
地元民が勝手に立候補を決めて当選。
清廉潔白な人物であったのは確かなようだが、
政治家となれば活動に変節はつきもので、毀誉褒貶もつきまとう。
その最大なものに「統帥権干犯問題」がある。
日本が戦争に至った要因の最大的なものに、「統帥権干犯」がある。
これにより政治家は、軍や軍人の言うがまま・成すがままとなった。
木堂先生は一生をかけて政党政治確立に努め、そして最後は自らそれを否定する「統帥権干犯」により首相となったが、
昭和7年(1932)5月15日、自分と政党政治の両方の命を終えた。
「問答無用」と首相を倒した軍人(陸海軍の将校)は、
・・・・銃殺刑どころか・・・・・・、結果的に事実上無罪。
裁判中は、
犯人に対して結婚を願望する若い女あり
犯人を義士にみたてたレコードまで発売された(発禁になる)。
日米開戦の10年前だが、すでに日本はこうまで狂っていた。
郷土の人はいつの時代もやさしい。
岡山県最初の首相となった木堂先生は今も庭瀬の誇り。
邸内や付近の清掃も、木堂先生への愛情があふれる。
では、
えいちゃんは「RSKバラ園」に向かう。
2011年5月21日