2010年4月17日  土曜日   午前11:00ころ
井原市西江原町賀山  摩利支天





「同じ西江原の出身、平櫛田中には負けんようにする」と話してした伯父(母の兄)だったが、


昨年の4月、93歳で亡くなった。



















「えいちゃん、あれが笠岡の御嶽山じゃ」、

子供のころ賀山の祖父母のウチに遊びに行くと、伯父は向こうの山を指さしておしてくれた。


だけど、その当時のえいちゃんは御嶽山など見たことも聞いたことも、そして関心もなかった。




(正面が笠岡市の御嶽山)



大人になってから知ったのは、伯父が社会人になった最初の赴任先が御嶽山の麓だったということ。


当時独身の伯父は大島の竹田に下宿していて土曜日になると自転車に洗濯物を積んで毎週賀山に帰っていたそうだ。














母の兄弟は5人だが、ここ数年で4人が亡くなり、ついに母だけになった。




母と姉と三人で賀山の墓参りに行った。






お花を供えたあとで、母は墓地の山道側の草を刈った。

お墓のまわりはきれいな状態だったが、それでも自分の兄や父母、祖父母、曾祖父母が眠る場所をきれいにしたい気持ちが母にあったのだろう。












お墓のまわりは新芽がでた木木が印象だった。






「おじさんも喜びょうてじゃ」、母はそう言った。

そして墓参りは終わった。













お墓から摩利支天さまを見ると、まだ桜が残っていた。



それで摩利支天に行ってみることにした。
















摩利支天さまのまわりには那須一族の墓地・墓石があるが賀山の住民の墓地もある。


写真↓、左側の塔のような墓。

その墓を指さして母は「戦死しちゃった人の墓じゃ」と言った。

















賀山の摩利支天は戦時中はたいへんな隆盛をみせ、祈祷する専従の人がいたそうだ。







摩利支天は戦の神で、当時流行った「武運長久」の願いに後月郡内外からひっきりなしにお参りする人がいたそうだ。











今は正月の餅投げがにぎやかに行われているが、その時を除くと静かな場所になっている。















公園風によく整理され、眼下には井原や出部の市街地が見える。





散った花びらがいっそう境内を鮮やかにしてくれる。












弁当とコーヒーを食べ飲む母と姉。





















これは賀山の人が単に「お寺」、と呼んでいる医王院。医王院は賀山のほぼまんなかに位置している。







医王院の門前の桜もまだ、花をはんぶん残していた。








つぎ・桜橋公園の桜













2010年4月19日