2009年2月12日 | 笠岡駅 | 〜 | 川尻駅 | 〜 | 安芸灘大橋 | 〜 | 大平山 | 〜 | 大地蔵 | 〜 | 三之瀬 | 〜 | 安芸灘大橋 | 〜 | 川尻駅 | 〜 | 笠岡駅 | |
呉市下蒲刈町 | 6:33 | 8:42 | 9:25ころ | 10:25ころ | 11:00 | 11:30〜12:40 | 13:05ころ | 13:51 | 15:52 |
10台くらいの駐車場があり、そこから50mくらい登ると山頂広場だった。
山頂広場には桜の木が植えてあり、公園になっていた。
大平山から見えるすばらしい風景は?
まあ、こういうことで↓。 今日の天気ではどがーにもなりません。
ところで、大平山山頂は「瀬戸内海の多島風景」「桜見物」と並んで、重大なものがある。
それが、これ。砲台跡が二つ。
ここから203発、米軍機に発射した。
呉の周辺の数ある砲台でも重要だったのが、下の説明でわかる。
しかし、
では203発で米軍機を何機撃ち落としたか? といえば実績ゼロだろうな。
合計2300発で墜落機が2〜3機あるか、ないかぐらい。
かつて、えいちゃんの上司は「宮原から発射するのを見ていた、数はすごかったが(高さが米軍機に)届いてないのがわかりょうた。」と話していた。
でも、
発射したのはマシなほうで、発射できない高射砲があった。
下記はおじ(母の弟)の話、当時16歳・海軍飛行予科練習生二年目
「野呂山の高射砲」
安浦では勉強はない、日和じゃったら毎日野呂山へ行く。
このくらい(電信柱程度)の杉丸太を、7メートルくらいかのう。
灰色の色を塗って。
それを山のうえまで持っていく。
着いたら草を刈って。(周辺を)丸ぁるく刈る。
そしたら丸太をこういう角度に向けて・・・(笑い)・・高射砲じゃ。
ワシはもう兵長じゃった。帽子に線が1本はいっとった。
召集兵が引っ張ったり、押したり。もう、親のような年齢の35や40の人じゃった。
坂を野呂山の頂上まであがりょうたんじゃ。
昭和20年の日本軍にあったのは”鬼畜米英を打倒せ”というスローガンだけの虚構であったように思う。
父は昭和20年、渥美半島で米軍上陸阻止に派遣されているがもはや戦闘以前の状態だったのを話していた。
そうしてみると、弾が届かなくても撃つことが出来たのは当時貴重な事実であったことともいえる。
2009年2月13日