2008年2月11日  午前8:40〜11:30
笠岡市山口・新賀・関戸 「新山史跡探訪ウォーキング」



これは「七鍬池」
場所は新賀と関戸の境界あたり。

8代将軍吉宗の時代に築造されたそうだ。



「七鍬池」は、
池が完成後も水が満水にならなかったり、
現笠岡市地域では
代表的な「水争い」が新賀村・関戸村でつづいていたそうだ。







尾坂池の堤防に着いた。
堤長は200m。
提高は25m。



昭和42年完成。


8軒の家が湖底に沈んだ。



製粉・そうめんうどん・乳牛などの家家が関戸・新賀・尾坂・里庄に引っ越していったそうだ。

湖底の中央に道があり、それは玉島往来と呼ばれ、その道に沿って民家があった。








そしてダムの下にある大庄屋・戸川邸で止まった。


当主・戸川氏が屋敷先にあった水車小屋、守番の小屋・石組、を自ら説明してくれた。



当主・戸川氏はじつは、
えいちゃん金浦中学時代の図画の先生だった。

先生の顔はよく覚えているが、今の顔にはまったく共通点がないくらい時代が経っていた。










(尾坂ダムから配水された水は吉田方向と新山方向に別れ桝や水道が山中や地下をはしっている)



安養寺では、住職さんと奥さんが待っていた。

公開できない仏像を大きな写真を持って説明してくれた。




そして、
旧松山道を歩いた。


道べりに安養寺で、疎開児童を世話した婦人が待っていた。


「神戸からきた子供たちは”お母さん、おかあさん”、と呼びながら泣いていました。」

老婦人は
このことを
今伝えておかないといけない、
そういう気持ちがえいちゃんにもよくつたわってきた。










つぎ・応神山@A














2008年2月15日