2007年9月19日  午後6:00ころ
笠岡市用之江 



今日の夕暮れは国道2号線を走ろう。

2号線の夕日を見ながら走ろう。

大宜から用之江に向かって走ろう。



今日は、あの「僕は泣いちっち」を歌いながら走ろう。






僕の恋人 東京へ行っちっち
 僕の気持を 知りながら
  なんで なんで なんで
   どうして どうして どうして
    東京がそんなに いいんだろう
     僕は泣いちっち 横向いて泣いちっち
      淋しい夜は いやだよ
       僕も行こう あの娘の住んでる東京へ




この歌は昭和34年の曲だそうだ。

城見では昭和34年にテレビがあるのは城見小学校、それに小学校の下の理髪店にあった。

その二台がたぶん城見地区のテレビ総数であった。





はやく言えば城見の家庭にテレビは無かった。

















その頃、
えいちゃんは毎日歩いてこの山陽本線と、できたばかり(工事中だったかもしれない)の国道二号線を横断していた。

鉄道の横断は踏切で、踏切に信号はなかった。

国道を横断することにはコレという記憶がない、未舗装であり、「車が危ない」という時代ではなかったからだろう。






祭りの太鼓が テンテケテンと 鳴っちっち
 みんな浮き浮き 踊るのに
  なんで なんで なんで
   どうして どうして どうして
    僕だけしょんぼり みそっかす
     涙がホロリ ひとりで出っちっち
      お祭りなんか いやだよ
       僕は思う 遠い東京のことばかり






テレビからヒットした「僕は泣いちっち」、

テレビが無い子供たちも「僕は泣いちっち」を歌う。



”泣いちっち”いうのは方言、と姉が当時おしえてくれたが
では何地方の方言だったのだろう? いまも分からない。






そして今、
この歌詞を読んでみて思う。


この歌は「昭和34年、そのもの」だ、なと。

昭和31〜32年では早い。
昭和36〜37年では、既に時代も若者も変化している。






上りの急行が シュッシュラシュッと 行っちっち
 いやな噂を ふりまいて
  せめて せめて せめて
   遠い 遠い 東京の
    空に飛んでけ ちぎれ雲
     汽笛がなっちっち 遠くでなっちっち
      夜汽車の笛は いやだよ
       早く行こう あの娘の住んでる東京へ







城見の子供のえいちゃんたちは単に歌うだけであったが、
城見の青年たちは、汽車が最期に着く駅東京を思いながら歌っていたんだろうなあ。


その青年は今、老人になり。
子供は熟年と呼ばれる年齢を生きている。



つぎ・笠岡の夕日@AB














2007年9月20日