2007年5月27日  午前8:36〜11:43
笠岡市高島



大泊にある「高嶋神社」。

ここには古代住居跡遺跡もある(その説明板はあるが遺跡は見えない、不思議だった)



それに、ここにはもひとつ「黒松」があったところ。

その黒松は、
えいちゃん少年の時、いちど見た記憶がある。

近所の漁師さんが漁船で高島までつれてきれくれた(かすかな)想い出、海の道べりにそれはそれは立派な松の大木がくねくねと横に上にのびていた。


その松はあまりに見事なので笠岡市の文化財に指定されていたが、昭和40年ごろだろうか、枯れてしまった。



近所のおじさんがいたので聞いてみた。
「松の切り株とか根の名残とかは無いのですか?」


「まったく残っていません。」

そこへ奥さんとお嬢さんで三人がかりで松の自慢を始めた、そして。

「道をつけるとき、まっすぐにしないで、こうして松の根にかからないようにまあるく海側にひろげたのです。
でも、すぐその後でした、枯れたのが。」

くれぐれも残念そうな言葉と顔であった。






王泊から山に入る。




真奈井(まない)。

神武天皇がおつかいあそばれた井戸。



この井戸のふたをあけて口にふくもう。


すると、
すぐ底、
空井戸でした。



井戸を囲む玉垣。
明治16年宮内省が建設したもの、
さらにそのうしろの碑。
これは当時の皇太后のお歌であられる。









手すりもない、急な石段を上る。






ところで2007年は平成19年であり、そして・・・・・、皇紀 2667年でもある。


皇紀2600年この年、大日本帝国宮内省は吉備国「高島宮」をココ小田郡高島村でなく、児島郡甲浦村高島に指定した。


その6年後、
大日本帝国は崩壊し、神武天皇も神話も完璧に無視され「高島宮」の場所も論争の論外になった。








(ここに神武天皇の記念碑がある。なんと自然石。)





小田郡の海に浮かぶこの高島が、神武天皇の東征の際8年間に渡り基地となった有力な根拠理由がある。


地形。
周囲が島に囲まれ見晴らしもいい。指揮しやすい。



海峡。
水軍を休める湾が三ヶ所ある。



水。
瀬戸の島では極めて珍しく飲料水に恵まれている。









高島には皇軍盛んな時代、

その創世記を形つくる島であった栄光の高島という時代があった。もっとも、国民を酔わす話であったけど。










遊歩道を歩く。

高島・明地島・神島。



高島・明地島・稲積島、その向こうにJFE西日本製鉄所。




高島・ホヤ島・差出島・明地島・神島。





白石島との間は釣り船がいっぱい。






高島・白石島、その右飛島、はるかに六島。















つぎ・高島C














2007年5月27日