2007年2月17日  午前9:30〜12:30
岡山市庭瀬〜高松


天下に名高い「高松城水攻め」。

歴史に、小説に、映画に、ドラマに、これほど有名な史実はない。



(高松城跡にある看板)


天正10年6月2日 本能寺の変

天正10年6月4日 高松城主・清水宗治自刃

天正10年6月8日ころ 中国大返し(秀吉姫路城へ)

天正10年6月13日 山崎の合戦




この12日間は日本史の華のようなところがあり、
豊臣秀吉がいちばん輝いた時期で、

城主清水宗治は大観衆の面前で見守られながら和歌を詠み死んでいった。



辞世の句のとおり、今も”名を高松のこけに残して”し、日本人に愛されているように思う。




備中七城。
天正9年10月、毛利の小早川隆影は織田信長との決戦を前に最前線となる備中七城の城主を三原城に集め太刀を渡した。

備中七城は現在でいえば岡山市と倉敷市にある、備中国のいちばん東で備前国との国境にある。



そのひとつ、撫川城。
(岡山県人なら読めるけど、他県人には無理だろうなあ。なつかわ城と読む)

(撫川城)

この城は秀吉に攻められ、宗治の死で和睦。

いまも水路がはいりめぐらした庭瀬の水田地帯に残る。沼城。


同じ運命の城で、同じ沼城、それでこの城は石垣が残らない高松城にイメージが重なる。







築堤跡。

長さ3キロ、(ここ高松の蛙ヶ鼻から現在のJR足守駅ふきんまで)

地上7m。

下部幅24m。

上部幅10m。、






清水宗治の首塚。
明治なかば、この高松城址へ移されたそう。



(高松城跡)

蓮池または宗治池。昭和57年に岡山市が史跡公園としてつくったもの。


(高松城跡)




城前に船を浮かべる。
舞いをまう。
辞世の句を詠む。

「浮世をば 今こそ渡れ 武士の名を高松の 苔に残して」


湖上に自刃。



これほど絵になる出来事があろうか。


(高松城跡公園より100mほど離れたところ)


一人の切腹で城中の4000〜5000人が解放自由な身となった。







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2007年2月18日