2007年10月27日 午前9:00ころ
笠岡市富岡 元・富岡小学校
富岡小学校の跡地に行けば名を知らぬ木が真赤に色づき、枯れ葉は落ちていた。
その枯れ葉を竹ボウキで掃いている老人氏がいた。
老人氏は、
「もう30年間こうして毎日そうじをしています、ボランティアでやっています。ホウキは古くなるとユーホーに行き買い換えています。
富岡を守ってくださるのですから、こうして少しでもきれにしておかないと。」
富岡小学校と徳民於賀神社の境界を尋ねたら、老人氏はそう話しかえしてきた。
「あの建物は学校でした。
残して今は神社の倉庫として使っています。」
(元校舎の一部)
これが富岡小学校の校門。
校門の向こうに廃校の記念碑が見えている、その記念碑から学校の歴史を写す。
「明治6年開校
昭和44年閉校・中央小学校開校
富岡地区(大磯○○以東、絵師)コミュニティ推進協議会」
となっている。
して、
その裏面には更に詳しく記されてあった。
昭和にはいり戦前。運動場の拡張、校舎増設、、国民学校と改称、奉安殿建設
昭和の戦後。昭和25年幼稚園付設、昭和37年運動場拡張、
など。
これが富岡会館。
「あそこは運動場でした、あたらしいものです。」と老人氏がおしえてくれた。
会館の前には大きな蘇鉄があった。その蘇鉄が校庭の最初に植えられたとすれば、46年目になる。
老人氏のいちばんの記憶は、
「小学校の4年か5年生の時でした。大きな音とともにあの石垣が落ちました。それは、びっくりしました。
それで、あの石垣には新しく作り変えたところと、古いままのところと二つから出来ています。」
富岡小学校の石垣と「おひち」、於七大明神の鳥居。
「神社から借りていた用地は廃校の時、神社に戻しました。」
明治に徳民於賀神社の隣に出来た富岡小学校は校舎や倉庫校庭の拡張の際、接する西と北は神社から借りていたそうだ。
それで、えいちゃんが境界がはっきりとわからなかった訳だ。
2007年10月28日