2006年6月3日 午前9:50ころ 笠岡の戦争遺跡「阿部山の開墾」
笠岡市尾坂 阿部山中



標高380mの阿部山。


その阿部山の山頂めざし、

かつての日、父は仕事で登っていた。







戦時中、
食糧増産のため小田郡・浅口郡にまたがる阿部山の山頂は「開墾」された。







岡山県史または山陽新聞の古事によれば『岡山1中(朝日高校)の生徒が開墾した阿部山』、ということになっている。

笠岡高校の校史によれば『笠岡高等女学校の生徒が開墾した阿部山』となる。




父は学校卒業後、「岡山県農業指導員」だった。


”ヘータイにとられている時も給料を振り込んでいてくれた、
気の毒なので、戦後家に戻ってから辞めた”・・・そうだ。












父は、その「阿部山開墾」の指導員。

父によれば、
・・・1中や女学校の生徒でなく・・・・
「矢掛や鴨方の青年団が交替で作業にきていた。」
とのことだ。

(父も当番制でここに来たそう。)


指導員たる父の仕事は?

「その日の人員の割り振り、あとは石ころ拾いのテゴ」であった。











都会では学校の校庭まで菜園にした時代、
この阿部山はたしかに大規模な「開墾」に適したところ。


山頂が丘陵となり広い。
鉄道(井笠鉄道新山駅)から近い。
近隣の人を集めやすい(笠岡・矢掛・鴨方)場所。

そういう条件が揃っている。






開墾なった阿部山には入植者がやってきた。




阿部山中には神社ができて、
分校もできた。


分校は吉田小学校の分校というより、
吉田小の尾坂分校の、そのまた分校。そういうかんじ。






全盛期には20世帯ほどの入植者がいたみたいだ。



開墾はできても土地は痩せていた。


いまも数世帯の家が残っている。

広い阿部山中にぽつんぽつんとある。

農業をしているのだろうか?

庭先にイノシシを檻に入れたうちもある。




あきらかな現役は養鶏場。
山中に工場がある、そういう大きな鶏舎。




この阿部山中を歩けば、
今が平成というのを忘れるくらい、なつかしさと、戦時の食糧難の苦しさを思わせる。



そして、また一つは。
この阿部山開墾地への道、
これは自然舗道として森林浴が楽しめる道でもある。
道に沿って川の音がまたいい。




つぎ・尾坂道万














2006年6月4日