2006年5月6日 午後0:40〜2:00ころ
倉敷市船穂 高瀬通し
さいしょ、のどかな船穂の通りを歩いたり走ったりしていた。
船穂は街道も、民家も、田んぼものどかで気持ちよく。
それに笠岡から近いけど来たことが一度もないし、はじめて。
それは倉敷市民だってそうだろう、船穂は用事がない町だ、行くことが無い町。
結局、水門は発見できず。
それで、ここ「船穂公民館」で聞いた。
窓口で場所を聞くと、「どうぞどうぞ」と中にとおされた。
「いにしえの道」という町のパンフレットをひろげ、そして指差し、
「この水路に沿ってあるくのがいいでしょう、およそ2キロほどあります。
・・・・・・、
このパンフレットはもう残りすくないのです。
船穂町が作ったものです。
・・・・・・、
観光も、合併したら倉敷にやられます。
(以後、この類のパンフレットが新規に発行されない)
・・・・」
「もひとつあります、これも記念にさしあげましょう。」
それは”船穂町文化財史跡図」というパンフレットだった。
えいちゃんは厚くお礼を言ってから、再度の出発をした。
↓、この道。
そして川、これが水路で高瀬船の道。
川幅は一ノ口水門から距離を増すごとにだんだん狭くなる。
そして船穂公民館あたりで見失う、そういう水路。
↑の写真に小屋がある。
こういう水番小屋みたいなのが川に3〜4ヶ所残っている。
ここで、話は変わる。
又串公民館の前に銅像があった。
「東郷平八郎軍師」。
軍神の銅像があるのだなあ、まだ。
そう思っていれば、こんどは「二ノ水門」に接して「白神源次郎記念碑」の白い木製の案内板。
これこそが、軍神「木口小平」の船穂版。
『木口小平は死んでもラッパを離しませんでした。』
あの人。
船穂の白神源次郎は日清戦争で戦死、そのご、話は戦争美談に上乗せされ宣伝され、軍神となり、名は木口小平となり。
各地でわれの地が木口小兵の故郷である、と。成羽・矢掛・神辺ほか他。
↑、写真左が日清戦争後のもの。右が軍神となり昭和2年にできたもの、教科書時代だな。
その白神源次郎のお墓から見る高梁川。
川の向こうは倉敷の西阿知・中島方向となっている。
2006年5月7日