2006年3月12日 午前10:00ころ 笠岡の出来事 「昭和35年・北川村の合併騒動」
笠岡市走出
しずかで、のどかな北川。
だが、
およそ70年間つづいた「北川村」は、その終末期にすさまじい騒動があった。
昭和27・28年ころの町村大合併の時代、取り残され、漂流し、難破した。
難破したあと村民は、北(矢掛)に揺れ・南(笠岡)に別れまっぷたつ。
ムシロ旗をたてて村役場を囲み、村会議は徹夜の騒動をつづけた。
「北川村」は小田郡のまんなかにある、小田郡の中央。
それが結果的には悪かった。
中央であるばかりに、中央で合併しようとした。
それが昭和27年ごろの小田・北川・中川・新山合併構想。
ほころびはすぐに出た。
いちばん地理的人的に結ばれている「新山村」が引いた。
お隣さんである「新山村」はその10年ほどまえ、吉田村と「青年学校」を設立していた関係もありはやばやと「笠岡市」と合併した。(昭和28年10月1日城見・陶山・大井・吉田・新山・神島内が笠岡市合併)
小田郡は南部・北部に分かれ新山村から北部、吉田村から南部。
その北部の新山村が抜けたことが、以後北川村の数年間の漂流を予想している。
ほどなく「中川村」が抜けた。
(昭和29年5月1日、矢掛町と美川村・三谷村・山田村・川面村・中川村の1町5村合併により新たに矢掛町が発足。)
ここで残るは「小田町」「北川村」の二つになった。
北川村の相手は小田町しかなくなった。
小田町との合併にこだわる村長と村議、南・笠岡市編入の村議に分かれる。
当然の成り行きで村民がまた分かれる。
小田派・笠岡派の双方が押しかけ建物を囲んだ「小田郡北川村役場」。
その場所に行けば今。
建物はなく更地のうえには軽四の車が二台、と倉庫一棟。
個人所有の土地になっているもよう。
笠岡市合併後45年、騒動の名残も匂いも今は無し。
今日は小雨の日で騒動当時の話を聞けなかった。
その話をこのページに追加予定。
2006年3月12日