2006年2月14日  12:00ころ
笠岡市横島 「カブトガニ博物館」



むごいことを言うようだが。


カブトガニを焼いて食べる時は、
こうやって裏返しにして焼いていた。






えいちゃん少年の夏の日は、ハラが減ってたまらなかった。
それで漁師の船から無断でもらい焼いて食うていた。


冷えた味噌汁と麦飯のご飯をノドに通して、朝6:30ころから昼の2時・3時まで海にいた。
それは夏休みの毎日のこと。


昼ごろ、ハラが減るのでドンガメを食う。
磯の石でクドをつくり、山から松葉を集め、火打石で火をおこし、そうやってドンガメを焼く。

なんといってもくさい、におう、味は美味くない。
美味くないけど腹に入れていた。



ドンガメの想い出とは”美味くない”もの。








その海からの帰り道。
茂平の民家ではドンガメを焼いて食べるうちがあった。
見なくてもわかる、強烈なニオイが漂うから。


いつか父と母が話していた。


「おいしかったなあ。」
「美味かったのうや。」


両親にとってドンガメは"美味"な想い出となっている。








金浦湾のドンガメは「天然記念物・カブトガニ」である、ということは知っていた。

でも、えいちゃんが金浦中学に在学中に”保護”という言葉も活動も聞いたことがない。




高校に進学後、校医さんがいた。
「西井先生」というお医者さん。

西井先生が3年間校医さんだった。

えいちゃんの記憶では西井先生が最初の「カブトガニ保護」運動の人。
そのころ、
日本鋼管の引野・大津野沖埋立はすすんでいた。
「保護」という言葉の現実味をいくらか感じはじめた。











生江浜には金浦湾をみるところに増成翁の記念碑がある。


翁が大正・昭和にかけて保護活動の先駆者。
当時の漁師相手に苦労した、とは思わない。


翁はひたすら東京を相手として保護を訴えたと予想する。
昭和3年、「天然記念物カブトガニ繁殖地」の指定をうけている。




生粋の地元民として「保護」にいち早く活動したことはすごい。






カブトガニは金浦湾を中心に西、茂平・野ノ浜あたりまでいた。
野ノ浜が限度。


カブトガニは笠岡湾にいたというのではなく、
金浦湾にいた。


生江浜が生息地。

ここが微妙なとこで。
海がきれいなだけでも、砂浜藻場があるだけでもカブトガニはいない。
ひろい笠岡湾の金浦湾の生江浜だけ。



今の神島水道での保護活動のむずかしさを感じる。







つぎ・カブトガニ博物館A














2006年2月15日