2005年9月23日  午前8:10ころ
笠岡市神島瀬戸〜横島  元瀬戸の渡し


神島大橋ができて瀬戸の渡しは廃止された。

神島大橋ができなくても瀬戸の渡しは廃止されただろう、というのは橋が完成するころ神島は東西2本の干拓堤防で島でなくなってきていた。




昭和44年3月完成の「神島大橋」、今舗道の拡幅工事中。








笠岡から神島に行くとすれば。

横島の海側の崖の狭い道を過ぎればすぐ。
もっとも渡しがあるころは人と自転車が通るだけで車はすくなかった。


瀬戸の渡しの本土側。










ここから船に乗る。




とか言いながら、えいちゃんは一度も渡し船に乗ったことはない。














えいちゃんが高校生の時の同級生はといえば・・・・。





神内の人は全員、男女問わず自転車で通学していた(渡船していた)・・・これは間違いない。

神外の人は男性は自転車、女性は三洋汽船で通学(男性のみ渡船していた)、・・ではなかったか?・・記憶に自信がない。
(神外の記憶に自信がない理由に神外からの生徒がすくなかった。)



追加・神外の同級生Hくんに確認してみた。2005年10月7日

「高一の時は自転車で通学していた。高二 高三の時は三洋汽船で通学した。
最終の船に乗り遅れると仕方なく歩いて帰っていた。
片島の人は自転車だったと思う。一部渡船に乗った人が瀬戸から三洋汽船に乗り込むことがあったがその中に片島の人が居たかどうかは はっきり覚えていない。

年に一度位霧のため船が出ないことがあったなー。
その時は勿論学校に行けないので残念?ながら堂々と休みだったよ。

金光 福山はほとんど船 井原 鴨方は自転車通学だった。以上で参考になったかな。」






本土から見る神島 神島から見る本土






その距離は100mくらいか。


資料によれば昭和31年にフェリーになった。
それまでは伝間船。

木造の小船でエンジン無しの手漕ぎ。

・・・・そういえば、そのころえいちゃんの家にも船があった。山の畑から芋などを船に積んで父が漕いでいた。・・・・。






↓の4枚の写真は神島の船着場。






昭和31年のフェリー化にともない”有料”になった。

それまでは無料。
無料というのは「神島内村」の村民が無料。

利用者は村民以外はいなかっただろう、そのころ外浦は笠岡伏超と船でつながっていた。



有料化の際は天と地がひっくり返るほど内浦村民は驚き反対・陳情の騒動があったようだ。




↑は船着場をあがった道。
ここから南の古江、北の寺間・高まで船から降りた人は家に帰っていた。






船着場から見る本土側横島。
この横島もかつては「小田郡神島内村横島」だった。






つぎ・遙照山@A














2005年9月23日 追加・2005年10月7日