2005年8月17日 午前8:00ころ
笠岡市西本町〜金浦 JR笠岡トンネル


えいちゃんは手術というのをしたことが一度だけある。

それは外科病院ではなく目医者。

目医者で「トラホーム」の手術をした、これが今だに唯一の手術体験である。



(笠岡トンネルは二つある。明治の山陽線開通時は単線だったから。笠岡側)





この、えいちゃんのホームページを見る諸貴兄で「トラホーム」(またはトラコーマ)の名を知っている人がいるだろうか?

昭和30年代初期のある年なんか金浦小学校だけでも100人以上のトラホームの生徒がいた。(いつか笠岡市史に見た)。






簡易水道が笠岡市内にもできてきだして「トラホーム」も消えていった。
かつて、子供の代表する病気だったのだ。





(笠岡市西本町から見る東、笠岡駅方面)





なぜ?トラホームのことを書くかというと。
それは幼いえいちゃんが汽車に乗った思い出でもあるから。









(笠岡市金浦。トンネルをでた電車は暗渠がまだ二つ)




(笠岡市金浦、その暗渠のうえ。金浦は鉄道を挟み鉄南・鉄北と分かれる。右手が鉄北。)






手術をしたのは城見小学校の1年生の時だった。
昭和30年の夏休み。







(笠岡市金浦、上り側のトンネル。たぶんコチラのトンネルが古いほう)






手術は笠岡駅前の「かねみつ眼科」。
手術の日は母がついてきた。
それから目を洗うため隔日くらいで通院した。
通院はいつも姉が同行した。

えいちゃんは一人で汽車にはとても乗れなかった。

汽車に乗るどころか駅にすら一人で行けなかった。
山の暗く細い道を大門駅まで出るのは小学1年生ではできない。

大きな楽しみがあった。
「かねみつ」で目の洗浄がおわると二回に一度くらい、カキ氷を姉は食わせてくれた。
今日はカキ氷を食えるんだろうか?、それが楽しみだった。










(笠岡市金浦、下り側トンネル。ついでながら今日えいちゃんは踏み切りでない線路をわたった。何十年ぶりだろう、ひょっとしたら初体験だったかもしれない。)








大門駅と笠岡駅との間にトンネルがあった。
トンネルを出るとすぐ笠岡駅。


トンネルにはいる前、窓を下ろす。
でも、暑い夏で窓を下ろさない客が一人くらいいつもいた。
ひょっとしたら下ろそうとしても窓が降りなかったかもしれない、そういうきつくガタのある窓だった。

トンネルの中に汽車がはいれば石炭の煙が車両のなかにいっぺんに入ってきた。

”うっわー”・・・・、と思うまもなく笠岡駅に汽車は着いていた。







(笠岡市金浦、鉄南から見る山陽線。トンネル近くまだ単線のレール)





山陽本線の蒸気機関車は昭和36・37年ごろ突然のように消えた、機動車と呼ばれるジーゼルの期間が1・2年あり。
えいちゃんが高校生になるころには電車になった。
電化とともに車内には冷房もついたんだろうなあ、窓も開閉がなくなって。








つぎ・西江原町賀山への道














2005年8月17日