2005年2月26日  午前8:40ころ
笠岡市横島



あれは昭和40年の8月のこと。
高校2年生の夏休みの時だった。



僕達、笠高の生徒は大型バスに乗って横島に来た。


同学年で同じクラスのA君が死んだ。その葬儀ではじめて横島というところに来た。





Aくんは病弱だった。だから死因というのも覚えていない。



Aくんの葬儀にはクラス55名全員が出席した。(電話もない時代、どういう連絡だったかも思い出せない)









Aくんの家は渚に面していた。





小さな音をたてた漣が家の前に打ち寄せていた。あの波の音と、家のまわりから聞こえる蝉の音、これが強い記憶になっている。

Aくんの父は確か「国鉄に勤めている。」ということだった。
彼の家は多分分家だったのだろう、横島の護岸道路のおわるとこにあった。






「横島」という地名を知ったのはその3年ほど前。





「笠岡の町からだいぶん離れたところに工業ができょうる。」岡山県立笠岡工業高校が独立・新校舎の建設中、それが横島というところに。
(高校も大学も、それは街の中にある、そういう時代)














昭和40年の横島は海辺に道路があり、その道路が護岸を兼ね、漁船の係船場を兼ねていた。

道路の前が海、後ろが民家。どこにでもある山陽地方の漁村だった。










3年まえ高校の同窓会の時のK教師の挨拶、「この年度(昭和42年卒)のことではAくんが亡くなったのが一番の印象です。」と話した。
K教師は担任教師ではなかった。


K先生はなんか人を見る目が優しいところがあったが、その挨拶の時それを思い出した。








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2005年2月26日