2004年11月28日 午前10:00ころ
笠岡市篠坂
姉の夫は陶山にくわしい。
なぜならば。
義兄は空襲を避けるため、福山の入船町から篠坂へ学童疎開した。縁故疎開。
”最初の日、「陶山国民学校」へ母に手を引かれ学校まで行った。
あいさつ後、母は帰った。
学校の帰り道、方向が同じ人と一緒だった。
それから一人、ひとりと減って。
自分ひとりになった。
一人で歩いていたら三叉路になった。
どちらの道かまったくわからなかった。
「えーい、ままよ。」と、
何も考えず一直線に走って行ったら疎開先の家があった。”
義兄が縁故を頼り、篠坂に疎開したのは時代がら昭和19年の後半から昭和20年のはじめにかけての時だろう。
当時、国民学校のまだ1年生か2年生の時と思える。
篠坂が山のまた山奥かという義兄の話はもひとつある。
”いちど、習字の道具を忘れたことがある。
そしたら取りに返らされた。
必死に走り、とって帰ったが学校は終わっていた。
きつい女の先生じゃった。”
義兄の疎開からはや60年が経った篠坂。
いま篠坂は自動車が走りまくる。
広島県の坪生や神辺から。
北は井原方向から。
朝夕は通勤の車のラッシュになっている。
そして素通りの車が山陽道を走る。
県境ぎりぎりに「篠坂パーキング」がある。
2004年11月28日