2004年10月31日 午前10:00ころ

笠岡市有田  教積院



明治・大正・昭和・平成を生きて死んだ祖父。
今日は祖父の13回忌。

祖父は明治27年生まれ。
神辺に生まれ茂平に結婚・養子としてきた。




(笠岡市有田  教積院)


子は男・男・女・男の3男1女。
4子とも大正生まれ。

ということは4子は戦争の世代の成人であった。




(教積院は山のなかにある。その場所は高く遠くの山まで見える)




4子は貧しい日本の時代を無事に育ち成人となり。

戦争の時代をのり越えて生きた。(うち3子が大陸経験をしている)








(教積院、写真左手は本堂の工事中。なんと天下の「清水建設」の施工。)


祖父は最晩年、笠岡市の長寿番付の男性部門第2位だった。
祖母は昭和53年に亡くなっている。




祖父母が亡くなって後、第2子が亡くなった。
現在3兄弟が健在。





(教積院、法事のお経がおわるころ後ろから足音が聞こえてきた。)

長寿の両親をもち、4兄弟は順番を違えることはなかった。


孫は10人。

長男に3人。
次男に2人。
長女に3人。
三男に2人。

もちろん、孫は全員健在。

そういう面で祖父は幸せだったと思う。




(教積院。白衣装の集団だった。全員で拝みだした。
でも「お遍路さん」というのはちと無理(?)、貸切バスで次のお寺に出発していた)


祖父は93・4まで元気だった。
鍬をかついで畑に行っていた。


茂平の誰よりも遅く畑に行き、誰よりも早く昼に帰っていた。
それは茂平の村の”長老”としての行為にふさわしい光景と思えた。













(教積院、「瀬戸内三十三観音札所」。その20番札所。
1番は倉敷市にはじまり、33番は福山市に終わる)








畑に行かなくなった祖父。
弱ってしまった。
亡くなるまでの数年間は母と義姉の『もり』そのものだった。

神辺から養子にきて80年。
入院・施設とはまったく無縁の人生。

80年間茂平の畳しか知らない、その畳の上で亡くなった。





つぎ・福山市蔵王山













2004年11月1日