2004年9月4日  午前7:30ころ
笠岡市甲弩 北川平野


条里制。





古代国家が租税収入を確保する目的で、6才以上の農民に口分田を与えるため、土地を区画したのが条里制である。
地割りは、四辺を道路・水路・畦畔で区画した1辺の長さ1町(108メートル)、面積1町(1万1000平方メートル)の坪と呼ばれる正方形を碁盤の目のように連ねたものである。
これを10に割ったのが1反(360歩・1200平方メートル)で、反当たり2束2把の租稲を徴収する。この坪を6×6で36個集めてできる正方形を里という。東西を里・南北を条として数詞を付し、1条2里・3条1里の如く呼んで位置を表示した。

これまで条里制は、646年の大化の改心の詔(みことのり)で定められた班田収授法を実施するために、奈良時代の初めごろまでには全国各地で広い範囲に行われていたと考えられてきた。

ところが各地の発掘調査の結果では、条里制遺構は鎌倉時代の初めごろにならないと現れない場合があることが分かってきた。
 
このように、条里制遺構の形成過程の実態についてはいまだになぞの部分が多く、そのなぞの解明は今後の調査・研究に期待されている。

条里模式図


条理制をとどめる田んぼが北川に残る。

阿部山と小田川にはさまれた田んぼ。

北川の田んぼは美しい。











1000年か1500年も前から整備された水田は稲がたわわ。
長い歴史の風格さえ感じる。





大小の水路は今コンクリートだが原型は当時からと同じ。
尾坂川と小田川からの取水で日照りの夏を乗り越えた完成度を感じる。





北川平野から走出方向。


北川平野から小田方向。


そして正面の小山に沿って尾坂川が流れている。
小山の左手麓には笠岡市指定文化財甲弩神社がある。















井笠鉄道の車窓からはどこまでもつづく一直線の真っ黒い電信柱が見えていた。
遠い日のえいちゃんの記憶。




えいちゃんの、
あのもう50年近い前の思い出の風景はココ北川平野に違いない。

電信柱は白くなった。コンクリートになった。
そして柱は太く高くなった。


でも電信柱は今でもまっすぐにつづいている。







つぎ・鳥ノ江峠









2004年9月4日