2004年4月16日  午前6:30ころ
笠岡市吉浜 金浦中学校跡地




此の場所にきて、まぶたを閉じれば浮かんでくるもの。



年齢でいえば34・5歳くらいから77・8歳くらいまでの人。


育ったところは金浦・城見・陶山の人。その人たちすべて。






閉じたまぶたはそのままにしていた方がいいかもわからない、それが元・金浦中学校のいま。




(ここから金浦中学、東西南北から通う生徒がここでひとつになり坂道を上に登る)






金浦中学校は火災で消滅した。
しかも放火で。
それはもう20年くらい前のこと。



金浦町・城見村・陶山村。

3町村の共同で組合立金浦青年学校ができたのが昭和15・6年(その頃と思う)、昭和24年の学制改革で組合立金浦中学校となり、昭和28年に笠岡市立金浦中学校、そして昭和が終わる頃に消滅。

そういう歴史。えいちゃんの母校。






(左手が現在の金浦中学、右手が元・金浦中学の校庭。体育館は撤去され、グランドはそのまま)



明治中期生まれの祖父はけっして金浦「中学」とは言わなかった。

「しんちゅう」、それでひとくくり。
どこの中学も「しんちゅう」。

城見小学校をでて旧制「中学」へ進学する生徒は毎年1〜2名程度だった。
それが卒業生全員が新制「中学」へ進む。

祖父は亡くなるまで「しんちゅう」と呼んでいたが、それは祖父の世代の人は同じ思いだったろう。




(第二校舎があったあたりから。)



新制金浦中学には「毛利校長」がいた。
金浦中といえば毛利校長。
毛利校長は昭和38年まで金浦中の校長先生だった。

毛利校長は男前の先生であった。
昭和26年ころ、県下初の擁護学級をつくったことでも知られている。

先生は昨年の敬老の日、新聞におおきくでていた。
お元気で絵画・陶芸をされているそう。






「二番手」。

なにをしても二番、それが金浦中学校。
一番にはならない、なれない。

笠岡市内の中学校はとにかく「西中」が聳えていたから。
勉強・スポーツなにをとっても「西中」には勝てない。


だが「二番手」は二番手なりの暗黙の義務というか当然というようなものがあった。

三番になってはいけない。東中や大島中・新吉中などの後塵になってはいけない。
それは西中が二番になってはいけないことと同じ。

一に西中、ニに金中。そういう時代が長くつづいた。



(坂道がはじまるあたり。学校の農園、授業で肥たごを担いだこともある)


「あこがれの金浦中学」。

金浦中学に行けばどれほど素晴らしいか?
(これはえいちゃん時代のはなしである。)

校歌がある。・・・城見小にはなかった。
ピアノがある。・・・城見小にはオルガン一台。
ポプラが大きい。・・・城見小のポプラは小さいということだった。
京都に行ける。・・・修学旅行は京都に行って金閣寺をみたり、ひょっとしたら映画役者に出会える。(当時は時代劇映画全盛)
生徒が多い。・・・城見小とは比較にならない生徒がいる。
おしぐらんこが見れる。・・学校の帰り道に「おしぐらんこ」が見れる。


金浦中学にはいると3年生よりも大きな2年生がいた。
全校生徒で一番大柄な生徒だった。目立つしスターだった。本人も明るい性格なようで成績もよかったようだ。
ではなぜこの事を書いているいるかというと。

次のひと言が忘れらない。
身体の大きさを聞かれた時。
「身長は1メーター69センチです。」

全校生徒数900人、それで一番の巨人が169cmだった。信じられない時代でもあった。







(グランド。そのままの状態。体育館は西中に次いで二番目。当時の小・中・高には講堂しかなかった。)

金浦中学校の校庭には平屋の校舎があり。
それは3年生の就職クラスだった。

昼休み、校庭は就職クラスが専用で使用していた。

暗黙の了解みたいなのが先生・生徒の両方にあった。
「もうすぐ卒業したら大人になる。最後の1年くらい自由にさせる。」そういう雰囲気があった。










♪南に望む瀬戸の海、みどりの松に囲まれて 眺めは清きこの丘に・・・♪

その眺めは現在の金浦中学校舎に邪魔されて昔日の眺めは遠い。




(いちばん上の校舎があったあたり。このうえの山をかきわけて入ると「希望の丘」がある。

金浦中学は木造の教室が山に沿ってだんだん畑のように4棟くらいあった。
焼け落ちた校舎の跡は今。


「炉辺の家」。
老人介護の施設。


その上には「労人福祉研修センター」。

この二つの施設がある。
それは今日、ここに来て知った。











『希望の丘』
えいちゃんは知らない。はじめて聞いた。

勤務先の金中出身30代女性二人に聞いてみた、「そういえば・・・、あそこのことを『希望の丘』と言っていなかった?」と二人はお互いに顔を見合っていた。

その場所は敷地内にはなかった。
「立ち入り禁止」の看板を通り抜け山の中にはいっていくと↓の像が見えてきた。

雑木・竹やぶが混ざり合い、かつての日、中学生がこの場所で集ったとことは思えない。
それほどに荒れたままの山になっていた。






この坂道。
これが「金浦中学校の坂道」。

金浦中の50年の想いはこの坂道だけに残っている。






つぎ・笠岡市吉田エヒメアヤメ








2004年4月16日