2003年10月12日  午前7時10分ころ
福山市大門町大門 大門駅


「ふるさとの駅」


誰にでもある「ふるさとの駅」、えいちゃんのそれは「大門駅」。







福山に行くにも、笠岡に行くにもとにかく「大門駅」から。この駅に来ないことには始まらない。


茂平からは山を越えて行く3つの道があった。
3つの道は、かさもり様(笠守神社)のすこし前の国道(当時の)で合流していた。






そして踏み切りをわたる。
踏切の右手にはお寺、左手には踏み切りの番人小屋があり。
踏み切りのポールは人力で挙げ下げしていた。







踏み切りをわたると民家が増えて、すぐ大門駅。
この道を何回、何百回とおったことだろう。







「はくりどう」「こっきどう」の店をすぎたとこにちいさな雑貨屋があった。
そこへ「もっち」か「少年雑誌」を買いにいくことがあった。


「もっち」はメジロを獲るため。10円した。ビンをズボンにいれ用意して。
それを買うためだけに2〜3人で大門駅まえまできていた。

雑誌は40〜50円していた。「漫画王」「冒険王」「少年」とか。
こういう高価なものを買うときは4〜5人連れとなる。
めったにないので、行きも帰りも足取りは非常に軽かった。








「大津野小学校・中学校」



駅のななめ右上にがけがあり、
崖のうえには木造の校舎が見えていた。
大津野小学校で中学も兼ねていた。
9年間同一の生徒というのが珍しかった。






もっと古くは、父はこの駅から”ばんざい”の声におくられ3度の入営をしている。


そして20余年後、えいちゃん大学生。
父は単車のうしろに僕を乗せて大門駅まで送ってくれた。

単車のバックミラーにはいつも母が写っていた。
父の背と、バックミラーに写る母の姿は当時から今まで「親の愛」として心に残る。

とにかく「ふるさとの駅・大門駅」なのである






駅のホームに立てば堤防まで田んぼだけ。
家は津野下、野の浜とも山側に沿ってありホームから見る真ん中は田んぼ。
その田んぼ道を次の汽車に遅れないように走って駅を目指す人たちがいつも見えた。



それが一変するのは鋼管の進出。

田んぼの中に道ができた。

道ができたら家が建ちだした。
そのころ隣村の茂平には福山市への越県合併運動がおこった。

大門の次の駅は福山ではなく「東福山」になった。




大門駅には行かなくても。

茂平の山や畑や道や海で遊んでいると”しゅばー”という蒸気機関車の蒸気の音が聞こえていた。
今シャープ工場のある山の向こうから聞こえていた。

”ぼ〜〜”と勇ましい音も聞こえた。
”ガッシャ〜ン”と貨車を繋ぐ音も聞こえていた。

小学校へ行くには踏み切りをわたらないと行けない僕には音だけでも大門駅のその光景は想像できた。







4〜5年まえに地下道が完成した。
2号線から地下道をとおり駅までいけるようになった。





行きは生江浜から2号線を走った
帰りは干拓地を走ろうと思った。





野の浜の道に「おがさわら先生」の家をさがした。

おがさわら先生は家の庭の竹ざおに洗濯ものを干していた。それを見たときは、”せんせい、おはようございます”
そういいながら前をとおるのが日課であった。

おがさわら先生の家はわからなかった。




つぎ・大井ハイランド子供祭り












2003年10月12日