2003年8月10日 午前6時40分ごろ
笠岡市茂平 茂平工業団地

茂平工業団地は茂平内陸工業団地と茂平臨海工業団地に分かれている。
そのどちらも、えいちゃんが子供の時遊んだところである。





用之江から茂平へはいって、神島・干拓地からと交差する。
この交差点はかつて海。茂平沖100m。
選挙近くなると朝の通勤時、候補者が演説する。




野の浜への道。内陸地。



かつて、たんぼ・畑。
えいちゃんが遊びまくったとこ。

だが、いちばんの記憶は。
畑が隣で一緒に遊んだ子。その同い年の女の子は、畑でなすびを食べていたが赤痢になってあっという間に死んだ。
その子は伝染病で死んだので(土葬されず)茂平の人里離れたとこの海で焼かれた。

もういないのか?海辺で焼かれたんか?子供の僕は、ぼおうっと思っていた。





今日の新聞の雑誌広告。
文芸春秋9月号。

特集「日本の黄金時代」
日本が最も燃えたあの、1964-1974

その黄金時代がはじまる1964年。
今工業団地のとこには、まだ電気さえ来ていなかった。

道もなかった。

茂平から野の浜に行くのは徒歩・自転車のみ可能だった。


団地最大手のヒルタ工業。

うしろの山は「高丸」と言って、えいちゃんがメジロを獲りに行く山だった。







鋼管の福山一号高炉が建設中のこと。

笠岡市・岡山県はは三重県津と熾烈な戦いをしていた。
日本鋼管は「製鉄」と「造船」会社で。
福山の鉄を笠岡市茂平沖で造船に。

結局、津に負けた。
茂平は造船の町になっていたかもしれない。






1969年昭和44年。

茂平から一本の堤防が海に延びた。
NKの大径管工場が茂平沖に建設されることになった。
その工事用の道路で、はじめて茂平は車で野の浜と結ばれた。
えいちゃん大学3年の時。

1年後、その建設会社にえいちゃんは就職が決まった。












日本鋼管笠岡門。

5つある鋼管の門のうち唯ひとつの岡山県の門。
門から鋼管内を見る。

誰がゴルフ場の門ともなることを予想しただろうか。

はいってすぐ左折、製鉄所ないに「全英への道・ミズノオープン」のコース・瀬戸内ゴルフカントリーがある。















広島スチールふきん。いちばん広島県に近いあたり。元・海。

その山側にポツンと民家が数件ある。↓。それが焼き物の「さらやま」
近くの山から粘土を掘り、薪で釜を焚いていた、「熱いじゃろうのう」と見ていた。
ちゃわんや土瓶を作っていたが、日本が豊かになると焼物は芸術になり作る人は「先生」になった。これまた予想できない変わりようだった。



郵便やさん。

茂平に配達にくる郵便やさんはそれは大変だった。さらやまへの配達物がある時は。
高丸をちょぼっと入った山道へ赤い自転車を置いて、手紙だけをを手にしてさらやまに配達する。徒歩で山を上り下りする。どんなに急いでも1時間ではすまない。
山道で自転車を見た子供たちは「今日はさらやまか、たいへんじゃなあ。」と話していた。
さらやまはそういうことで自転車もとおらないので陶器の出荷は船だった。石垣の下は白砂の海で海水浴になってもいい程だったが不便なので誰も行かない。












岡山県の隠れたいいところ。

住居表示が短いこと。このことは以外と認識されていない。
県内笠岡もそう。
茂平でいえば笠岡市茂平xxx番地でいい。

それを知らず無視、わざわざ。
笠岡市茂平小字○○、xxx番地と表示する企業もなかにはある。








内陸工業団地と臨海工業団地は一体化しているので見た目にはわからない。

工場のまわりに畑があればそこが内陸工業団地。
県が造成したが強制したものでなく農家に「売ってもいい人は、売ってください。」
農家の事情はさまざまで、全部売る人、半分売る人などあり。結局今の形になった。
当時は桃・ぶどう・いちじく畑が多かった。塩分を含む地なので水田はほとんどなかったように思う。







NKを除き、最初に茂平に進出した企業は「川岸工業」と「中尾フィルター」だった。

それから数年後昭和56年・57年に集中して企業が進出した。







つぎ・白石島














2003年8月10日