2003年12月30日  午前8時50分ころ

笠岡市大島中 笠岡市立大島中学校
(かさおかしおおしまなか かさおかしりつおおしまちゅうがっこう)


東京に住んでいるYくんからメールがあった。
Yくんは東京の大学に進学し、そのままずっと東京にいる。



「えいちゃんのホームページは身近なところが目の当たりに楽しめる。」と。
ならばもっと身近なところに行くか、と彼の出身校・大島中学へ走った。



なぜYくんの出身小学校ではなくて中学へ行ったか?
それは・・・・・・じつは・・・・・・・わからんのだ!




笠岡市のいちばん西の端の農漁村で育ったえいちゃんには、逆にいちばん東の大島がよくわからんのだ。












今朝は走りながらわかってきたことがある。

西大島に小学校があった。
校名をみると「大島小学校」となっていた。

となれば残りは「大島東小学校」しかないはず。



「旧大島村」には今、笠岡市「西大島」と「大島中」だけ。「東」はない。ややこしい。




西大島を過ぎてすぐ、道路左手に石碑があった。
立ち止まり見れば「大島村役場跡」の記念碑だった。

この地は今、JA倉敷かさやの支所になっている。






農協から上り坂になる、するとすぐそこに大島中学が見えてくる。
入り口には卒業生の石碑まで建っている。





中学校入り口ををちょっと過ぎたとこ。
そこにはおおきな赤い鳥居があった。鳥居のねきには消防やぐら。


バス停の名は「土生」となっていた。
農協前は「竹田」だった。





走っていてわかる事。
大島は「新田」と「山」と「海岸」にわかれている。


大島村と呼ばれていた頃、ここは浅口郡大島村だった。
笠岡市では唯一浅口郡。


御岳山の村落は今でもやま山やま。
「山」からは、かつて満州開拓団が大陸に「新大島村」を建設しようと笠岡駅から満洲へ移民していった。
悲惨な結果を背負い帰国したり死んでいった。





中学校の前も後ろも山やまが控える。







大島中学校。


校庭も広く、気持ちまでゆったりとなりそう。
そんな環境のなかにある。










(大島郵便局から山を登り里庄の安田工業あたりへ降りる道)

帰り道、「国道2号線→2キロ」の標識につられてはじめての道を走った。

これがくせもので、とんでもない急な坂道だった。
やっとこさ上り、下るえいちゃん。
でも空気だけはなんともいえん味がした。




つぎ・笠岡市八神社参@AB








2003年12月30日