| 2025年10月26日 日曜日 8:55~10:35 | |||||||
| 笠岡市茂平 | |||||||
①明治17年の高潮 ![]() 明治17年8月25日夜半から26日未明にかけて台風が襲来し満潮と重なり、高潮により堤防が30m決壊し、海水が茂平八幡神社の西麓(宮ノ崎)まで流入した。 『山陽新報』は、 小田郡笠岡村は其の災を被る尤も甚だしく、海岸に添える人家80余戸尽く破壊。 岡山全県では、 死者・行方不明 655人 家屋の流壊 2.217戸 田畑の荒廃 2.427町 被害激甚地 松江、南畝、東塚、中畝、鶴新田、乙島勇崎の各村 被害甚大地 北畝、福田古新田、広江、呼松、柏原、黒崎、寄島、西ノ浦、笠岡、西浜、茂平、神島等 皇室からの恩賜金3千円をもって蒲団2.600枚を作り罹災者に配付している。 隣の大津野村では死者5名 その他災害 昭和14年の大旱魃 「2018西日本豪雨」死者2名 |
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②綿畑 ![]() 干拓地ではまず綿を植え、シオヌキをした。 金肥として干鰯などが重要な肥料だった。 吉原は綿畑が多かった。 穫れた綿は売却した残りは、 糸を紡ぎ、機を織り、着物を縫った。 綿の栽培は明治20年ごろ、安い外綿の輸入によって生産が減少した。 茂平の栽培は昭和40年頃までつづき、ふとんやちゃんちゃんこに使用した。 |
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③市道坂里~苫無線(延長620m、幅員11m) 昭和43年、茂平沖に日本鋼管笠岡工場進出が決まり、埋立工事のため、新しい道路ができた。 昭和44~45年、岡山県発注で茂平沖埋立工事を五洋建設が施工。 道路は土砂運搬のダンプ車や、資材搬入の大型トラックが走った。 昭和45年、日本鋼管福山製鉄所笠岡大径菅工場が操業を開始した。 |
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④茂平工業団地 昭和44年から茂平内陸工業団地の造成を開始、 昭和47年から海面埋立による茂平工業団地の造成を開始した。 昭和55年に完成。 昭和58年現在、立地20社うち操業18社となっている。 |
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⑤平和記念碑 ![]() 「平和記念碑」は、敗戦と世相の混乱が少し落ち着いた昭和25~26年頃建立された。 茂平の出征者全員の名を刻んで、当時流行っていた言葉”平和”を祈願した。 昭和12年に日中戦争(盧溝橋事件)が始まり、招集される兵が増えた。 茂平の若者も徴兵検査後、大半は陸軍に所属し、 第10師団(姫路)歩兵10聯隊(岡山)や歩兵110聯隊に所属した。 歩兵10聯隊は中支の徐州~漢口や北満州の作戦、 昭和19年からサイパン、昭和20年ルソン島で米軍と激戦した。 歩兵110連隊は満州から中支で作戦従事。 茂平の戦死者数は不明だが、 城見村の戦没者数は95名。 |
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| ⑥松やに採取 ![]() 大津野飛行場周辺は米軍に機銃掃射され、茂平阿浜(皿山)には銃弾跡が残っている。 苫無から高丸への道に大津野飛行場の航空機を隠していた。 八幡神社参道前では「松脂」の採取をした。 昭和20年、国民学校の生徒は、松の木の幹に鋸目を入れ、 そこから流れ出る液を竹の筒に受けるようにしたものを学校に持って行った。 |
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⑦茂平新四国霊場 ![]() 大正時代に発行された「小田郡誌」によれば、 『明治11年頃本村大字茂平に新四国八十八ヶ所の霊場を安置し一時巡拝者多数ありしも今日に於いては漸次頽廃しつつある』 村民が苦労して造ったであろう「茂平88ヶ所霊場」も20~30年の繁栄でおわったようだ。 |
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⑧干しイチジク イチジク栽培の歴史は古く、 西洋種ホワイトゼノアが導入されていた。 西ノ谷の大本癸未太さんが干菓製法を考案、 大正時代から昭和の初期には栽培者も増え乾燥方法も改良された。 燻蒸室を作り、練炭火力と硫黄で蒸し、良質な製品ができるようになって栽培も盛んになった。 昭和7年(1932年)には 「茂平干しいちじく組合」を結成、共同出荷・検査・販売を行い、 五貫目入りの箱詰めにして、神戸・大阪・横浜へ共同出荷していた。 昭和27年 (1952年)には、農村加工優良組合として山陽新聞社から表彰を受けた。 昭和28年(1953年) には、農村加工補助事業として国の補助があり、組合加工場、集荷場の新築を行い、隆盛時には、栽培面積5haに及んだ。 昭和35年(1960年) 頃より食品衛生法による検査が厳しくなり、干しいちじくは硫黄分が検出され、 岡山県農業試験場・ 岡山工業試験場・大阪府立園芸試験場の協力の下、製造乾燥法の改良研究を重ねました。 改良されたいずれの方法も製造に日数を要し、人件費材料費がかさみ、色合いが自然食品としてイメージがよくなかった。 昭和40年(1965年)には、生食用として市場に出荷したり、加工会社に販売したりしましたが、採算が取れず在来種に戻した。 特産珍果「干しいちじく」は市場から姿を消した。 |
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⑨新堤(しんどて)![]() 江戸時代初期に完成、 文化8年(1811)に吉原新田の堤防ができるまで、新堤の西側は海だった。 |
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⑩地神(社稷) ![]() ”地神”と刻まれた円形の石碑は全国無数の村々に存在しているし、 備中備後には”五角形”の地神が多いのが特色とされる。 江戸末期から明治40年頃までさかんに建てられた。 茂平の地神に”社稷(しゃしょく)”がある。 「社稷」は、茂平に3基、 用之江に1基、有田に1基、福山市大門町に5基、加茂町に1基、 わずか11 基だけ。 旗涯地のだけ記年を認めることが出来、大正12年(1923年) 12月。 社稷は地神建立の最期を飾るもののようだ。 |
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⑪関東大震災 ![]() 「笠岡高校70年史」という本には、大正12年の関東大震災の時、笠岡の町がそうとう揺れた思い出が載っている。 茂平も揺れて家の庭に常夜灯の宝珠の部分が転がり落ちてきたそうだ。 (父の話・2000年11月23日) 七つの時じゃ。小学校へあがるときじゃ。おべえとる。 その時に夜燈の石が道に落ちそしてウチの庭(カド)に落ちてきた。 そわぁに揺れたんじゃ。 土台基礎はしゃんとしていたがテッペンはのせとけただけなんで、落ちた。 他に茂平に被害は無かった。 |
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⑫茂平越県合併事件 ![]() 昭和36年、福山市に日本鋼管の進出が決まると同時に 茂平の隣村である野々浜は日々変貌していった。 野々浜と峠を隔てただけの茂平は、何の変化も開発もなかった。 「笠岡市茂平」から「福山市茂平」になれば、 野々浜同様に都市化や発展できるのではないかと茂平の人は思った。 胴山と西ノ谷の人を中心に「合併協議会」が出来、 その後用之江も加えて、福山市へ「合併請願書」を提出した。 越県合併運動は、用之江の武徳さんが昭和39年岡山県知事初当選時期と重なり、 岡山県知事のお膝元で「越県」騒動はふさわしくないと中止された。 |
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⑬茂平にバスが来る![]() 山陽本線が出来たのは明治24年だが、 茂平には鉄道もバスもなく、町に行くには、徒歩か自転車で大門駅まで行く。 大門駅から汽車に乗って「福山」か「笠岡」に行く。 それが昭和33年頃まで続いた。 昭和33年、井笠バスは「茂平行」⇔「笠岡駅行」の運行を開始した。 バスはボンネット形で、道は悪く狭く、中村メイ子が歌う「田舎のバス」に似ていた。 茂平~笠岡間で1~2度ほど対向車が来た。 その時は、たいていの場合ひともんちゃくあった。 茂平園芸事務所で折り返し運転で、番屋のおばさんが切符を売りに来ていた。 冬の朝は、一斗缶で火を焚き、運転手・車掌、客をもてなしていた。 |
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| ⑭桃 ![]() 明治20~30年頃、日本の近代化は始まり、町に工場が出来だした。 食生活も変り、肉を食べ、果物を食べるようになった。 茂平は戦前、梨・桃の栽培が盛んで、 戦後は桃や除虫菊が盛んだった。 それも皆、先駆者岩蔵さんの指導によるものが大きい。 松浦岩蔵(城見の果樹王)さん 明治2年(1869年) 大冝に生まれ、日清戦争後 (1893年ごろ) 国繁に移って山林2haを開墾して だいだい・ネー ブル・温州蜜柑・梨・甲州ぶどうを栽培し、 ぶどうのマスカットハンブルグを畑で栽培することに初めて成功。 また除虫菊の山地での栽培にも初めて成功した。 茂平に果樹栽培が発展したのは岩蔵さんの研究や指導が大きい。 |
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| ⑮茂平小学校 ![]() 明治6年茂平村に「鳥飛校」、大冝村に「新開校」、用之江村に「明道校」が開校。 明治9年(1876) 茂平・男 人口367 生徒 52 茂平・女 人口366 生徒 14 明治23年4月城見小学校(用之江・大冝)と改称し、尋常茂平小学を本校の支校とす。 明治26年8月城見尋常小学校と改称し茂平支校を文教場となす。 明治39年4月高等科(終業年限2ヶ年)を併置す。 大正3年3月茂平分教場を廃止し、改築の用之江に移転す。 大正5年に高等科を併設し、城見尋常高等小学校。 大正4年度末の児童数、 尋常男164 尋常女171 計335。 ※明治40年以降(尋常6年)、それ以前は(尋常4年) |
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⑯茂平婦人消防隊 茂平婦人消防隊は、戦時下の昭和16年(1941年) 9月14日、日本で初めて「婦人消防隊」として誕生した。 「銃後のまもり」として 生まれ、 初代会長は大本八重子さん、 90名で発足。 当時は、嫁入りと同時に消防隊に当然のように入り、制服・制帽を作り、研修会を開くなど、意欲的な活動を続けた。 隊員の信条は 「自分の家から火を出さない」事で、 研修会や操法訓練などには、 皆、積極的に参加し、 昭和63年(1988年)には、 全国婦人消防操法訓練大会に出場し、8位に入賞。 昭和60年~平成にかけて各地で婦人防火クラブが結成されましたが、 消防隊の名前は茂平だけです。 |
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⑰茂平小学校の映画 ![]() 金浦座が月に2回ほど上映していた。映画は2本立て。 1本目が男性用の時代劇、遅い時間の2本目は主婦用の現代劇、というパターンが多かった。 青木と園芸と吉本に映画ポスターを貼って上映を知らせていた。 木戸銭は浜のりょうやんが集めていた。 新東宝映画『明治天皇と日露大戦争』 日本映画史上、最大の興行収入の話題作が封切り後2年してから茂平にきた。 茂平でも別格の集客だった。 学校は超満員、過密状態。 上映中にフィルムが切れて、映画中断も茂平映画史上最大回数だった。 映画に大人も子供も興奮し、楽しんだ。 |
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⑱茂平ごらく場 ![]() 旅芸人 4~5人程度の一座がどこからか来て、興行の前日は着物を着て 笛太鼓で「芝居があるよ」と知らせて歩いた。 その後ろを茂平の小さな子どもがごそごそ付いて歩いた。 ごらく場を筵で囲み入口を作っていた。 芝居は、人情もののチャンバラ芝居をしていたような記憶がある。 一座は学校に寝泊まりしていた。 青年団の芝居 青年団活動が盛んで、茂平青年団が演芸会を行っていた。 青年団の芝居は無料なので、有料の旅芸人よりも青年団をよく見た。 |
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⑲誘蛾灯 ![]() 砂川や西ノ谷に誘蛾灯があった。 カンテラの下に水盤をおき点灯し、夏の稲田を明るくしてウンカを誘殺した。 それが昭和22年頃からは螢光灯に変わった。 蛍光灯のまわりには大きな蛾やカナブンも近寄り、 受け皿にはウンカや昆虫の死骸が浮き、殺虫剤の強烈な匂いがしていた。 昭和30年頃からDDT、BHC等の農薬が輸入され、誘蛾灯は無くなった。 |
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⑳砂川記念碑 ![]() 干拓地内に流れ込んでいた砂川を、東郷新田の東側山ろくに沿って新川床をつくり、直接海へ放流する工事が、 大正10年8月から12年2月にかけて行われ、その記念碑が川口に建っている。 |
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㉑とんまんどて ![]() 「とんまんどて」は江戸時代の初期に築造された。 土手の前は砂浜がひろがり、 夏は子どもの水泳、正月はとんど焼きで遊んだ。 七夕の日は牛を洗った。 |
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㉒八大龍王(りおうさま) ![]() 龍王は通常山の頂上近くで「千貫炊き」と呼ばれる草木を炊きあげて雲を呼び雨を降らすが、 茂平の八大龍王は8本の石を海岸に横たえ、雨がほしいときは寝ている石を立ち上げて、 龍王の怒りをかって雨にありつこうというもの。 毎年、神主を呼び田植時期の雨を祈願した。 |
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| ㉓堤防(吉原新田潮留堤防) ![]() 文化8年に完成した。 吉原新田は、排水施設が不完全で収穫が一定しなかった。 大雨の後は、道が埋まり、西吉原の田畑へは 大廻りとなる堤防の上を歩いて行き来した。 |
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㉔堤防補強・水門・排水機新設・防波堤工事 ![]() 昭和26年度から、高潮害対策事業として、防潮堤の補強工事に着手され、 あわせて水門工事、排水機新設工事、防波堤工事などが継続施工となり、 昭和31年度をもって終了している。 総工費1.800万円余、この工事の完成記念碑が水門のそばに建てられている。 |
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㉕内海(うちうみ) ![]() 内海は吉原干拓の遊水池であり、浅瀬であった。 台風や大雨の後は、内海の水をポンプ場から外海へ吐き出していた。 その時はエンジンの音が茂平の村に響き渡っていた。 内海は半分が葦(ヨシ)がはえ、いつも静かな、美しい景観だった。 浜の”りょうやん”が小舟を浮かばせ、水棹をあやつり漁をしていた。 |
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㉖イナ取り ![]() ”イナ取り”の日は、茂平の子供にとって夏休み後の楽しみだった。 9月の第一日曜日、茂平の土手は見物と参加者であふれた。 内海(うちうみ)はポンプ場から海水を吐き出し普段より水深を浅くした。 参加者は竹篭(ウダと呼ぶ)を自転車や自動二輪車につんで茂平に来る。 消防団は制服すがたで内海全域を見回りする。 土手には茂平婦人会が模擬店を出す。そこでラムネなどを販売する。 いちばんの見所はヨーイ・ドンで一斉に内海に入っていくとき。 壮観だった。 ザブザブと足音とウダの音で獲る人、見る人、みな興奮していた。 イナ取りに来る人たちは、駅家・神辺・井原・矢掛の人たちで 溜池の池干しで使うウダをもっていた。 茂平や、翌週の野々浜のイナは貴重な海魚となっていたと思われる。 |
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㉗茂平港に来る船 ![]() 鞆の祇園詣り 昭和30年代、鞆の祇園さんへお詣りと遊山を兼ねた観光船が来ていた。 糞船(肥船) 昭和20年代、神戸から人糞を積んだ船が来ていた。 町の人の人糞は栄養分が高いと人気があった。 |
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「笠岡市菊花展」
2025年10月27日
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