2024年2月1日   木曜日         鷲羽グランドホテル      「むかし下津井回船問屋」
倉敷市下津井吹上    9:55発    10:01~10:48 
           「むかし下津井回船問屋」    



「むかし下津井回船問屋」は、商家造りのレストラン・土産店・古民具のほかに

北前船と下津井港の繁栄の歴史資料館を兼ねている。









これが千石船。

一枚帆船。あとは潮まかせ・風まかせ(という高度なテクシックが必要)






「北前船」

北前船は単に荷物の運搬をしていたわけではなく、
寄港地で安くて良い品物があれば買い、船の荷物に高く売れる物があればそこで売る。
さまざまな商材を取り扱い「商売」をしながら日本海を航海する、まさに「総合商社」と言える船です。

また、北前船は「米を1千石(150トンの米)積むことができる大きさ」という意味から千石船ともよばれ、
北前船史上最大の船は、2,400石も積むことができ、巨大な帆1枚で逆風でも進むことができる、すぐれた帆走性能のある船です。


酒田市役所hp











「瀬戸内諸島と海の道」編者・山口撤 吉川弘文館 2001年発行

西廻り航路の発達

「沖乗り」をおこなうようになった背景には海上輸送量の飛躍的増大があった。
幕府や大名の財政は、年貢米を大坂や江戸に運んで売却することで成り立っていた。
酒田から下関をまわって大坂・江戸を結ぶ西廻り航路が整備され、これ以後
西国だけでなく東北・北陸地域からも続々と年貢米を積んだ廻船が瀬戸内海にやってくるようになる。

やがて年貢米だけでなく各地のさまざまな特産品も大坂に集まり、大坂から桧垣廻船や樽廻船で江戸に回送されるという構造ができあがっていく。
塩飽の廻船は幕府御用船として寛文から元禄にかけて栄えた、のち特権的地位を失った。
年貢米に代表される領主的流通が中心とされるが、
後期には広範な商品生産の展開を背景とした商品流通のうねりが押し寄せてくる。
たとえば、畿内・瀬戸内地域にひろがる綿作地帯では大量の魚肥を必要とし、従来の干鰯(ほしか)のほかに北海道産ニシンの〆粕(しめかす)などが求められた。

初夏、あるいは秋に蝦夷地の産物を積んで西廻り航路を瀬戸内海にやってきた北前船は、
船頭の裁量で積み荷の米・ニシン・数の子・〆粕・昆布などを各地で売却し、
大坂でひと冬越したのち翌年春には、大坂周辺あるいは瀬戸内各地の塩・砂糖・紙・木綿・古手・甘藷などの産物を積んで北国に向かう。
また大坂・瀬戸内各所の廻船も北国・蝦夷地とを結ぶ交易に進出していく。
九州・中四国と大坂を結ぶ廻船もいっそう盛んに往来した。











「干鰯」

西廻り航路(北前船)に依って干鰯が盛んに入荷し、帰り荷には塩や古手を積んで帰る
(干鰯が入荷するまでは人糞尿、厩肥(きゅうひ)、山草などが重要な肥料元となっていたが、干鰯が入るようになると、米、木綿、たばこなどの生産力が飛躍的に上昇した)。
こうなってくると農産物自身の生産量が増加してくるし、その流通量が増加してくる。

江戸時代から明治にかけての購入肥料は、
北海道のにしんの絞りかす、豊後いわしの絞りかす、伊予・伯耆のさわらかすの魚肥(干鰯)や
大豆かすが使われた。
しかし施肥量の主体は堆厩肥、緑肥、しば、草、木炭、人糞尿の自給肥料で、
寛政の頃かなり購入がはじまった。

明治後期から大正に入り、
魚肥は桃、葡萄などの果樹に適していることから、
稲には代わって大豆かすが重用され、また硫安、過燐酸石灰などの化学肥料が漸次浸透してきた。



「福山市引野町誌」 福山市引野町誌編纂委員会  ぎょうせい  昭和61年発行













下津井


下津井の町は、下津井城の城下町としてつくられたが、その後、
北前船の積荷のつみおろし、
讃岐の金毘羅権現と瑜伽権現をむすぶ客船の潮待ちの港、
としてさかえた。


祇園宮の下の白壁・なまこ壁の土蔵、明かり障子にべんがら格子の家並みは、
かつての遊郭のあたり。
威勢のよい下津井節とはうらはらに、
薄幸な遊女のかなしいすがたをしのばせている。

「岡山県の歴史散歩」  山川出版社 1976年発行















北前船は明治30年頃、鉄道の発展によって、その輸送等を取って代られた・・・と思っていたが、

館内のガイドさんは次のように話した。

「明治30年頃綿花の輸入自由化によって」急激に衰退した。



なるほどなあ。

そういう解釈方法もあるなあ、と感心した。






綿糸紡績業



綿製品の輸入をおさえ日本の綿糸紡績業の育成をめざした明治政府は、官営紡績所の建設、紡績所企業者への資金貸付などで実現をめざした。
1888年倉敷紡績所、93年に福山紡績所、・・・
98年には西大寺・笠岡・松山・宇和・淡路・阿波・小豆島などの紡績所が営業しており、有数の綿糸紡績地帯を形成していた。
1880年代綿作は外国品におされて衰退した。


「瀬戸内諸島と海の道」編者・山口撤 吉川弘文館 2001年発行










下津井港はよ
は入りよで出てよ
まともまきよで まぎりよてよ
トコハイトノエ ナノエ
ソーレソレ


下津井女郎衆はよ
碇か綱かよ
今朝も出船を 二艘止めたよ
トコハイトノエ ナノエ
ソーレソレ










「瀬戸内の民俗史」 沖浦和光  岩波新書 1998年発行


近世の瀬戸内では、各地から船と人が集まる港の繁栄を維持するうえで、
どうしても必要なのは問屋・茶屋・芝居小屋の三点セットだった。








「高梁川44」 高梁川流域連盟 昭和61年発行

まだかな橋



この橋はいかにも小さかった。
港内に碇泊している小型の北前船に女郎が乗り込み春をひさぐ。
あの女郎は何をぐずぐずしとるんなら。
橋の遣手の婆はいらいらしだした。
「まだかな」「まだかな」と婆さんはよく通る声で矢継ぎ早の督促をする。
やっと女郎は波止場にあがり、急ぎ足で妓楼に帰って行く。
今は遠くなった明治大正の情景である。










「むかし下津井回船問屋」の他には、どこにも寄らず

昼頃おうちに帰ってきた。





草戸稲荷の節分豆まき①





2024年2月6日