2024年11月20日   水曜日    総社市    井原市     
総社市井尻野・湛井堰                         8:53〜10:53    12:24〜12:50    
               



川に堰をつくって用水にしようとすれば、堰のため水運が不可能になる。

そのため古来から先人は共存に苦労してきた。


江戸時代には田んぼの時期は堰をつくって12ヶ郷(現在の総社市・倉敷市・岡山市)を潤し、

田んぼに水が不要の時期(冬)は堰を除いて高瀬舟が通った。

それは昭和までつづいた。









碑文を写す。↓


湛井十二ヶ郷用水



昭和40年(1965)に現在の合同堰 (湛井堰下流約2キロメートルに造られていた上原井領堰との合同堰)が完成するまでは、
湛井堰では毎年高梁川を堰き止める、堰づくりがおこなわれてきました。

田植え前の5月下旬ごろから湛井堰の取水口にたまった土砂を取り除く「せぼり」という作業を行い、
そして、十二箇郷の人々で分担して堰場に木枠や石を運び堰を築きました。
こうして、田に水を引き稲を育てました。
その後は、秋の彼岸過ぎには用水の水はいらなくなり、船の通行や砂を通すため、堰をとりはらいました。
十二箇郷の人々は、長い間、人力でこうした作業を毎年続けてきたのです。

このように古い歴史と有数の灌漑規模をもつ十二ヶ郷用水は、
強い水利権をもつとともに古くから自治的な管理運営をおこなってきました。
早ばつの年には、湛井堰より下流へ水を流さない権利を持っていたため、
堰より川下の村々では水不足に悩まされていました。
そして、高梁川を行き来する高瀬舟などの船は、堰が設けられる間は堰の通行を禁止されていました。
江戸時代、諸国を巡っていた遊行上人という高僧が舟で高梁川を下る際にも、
湛井堰の通船を止め、さらに、幕府御用銅の輸送についても、堰の通船は認めませんでした。

また、堰や用水の管理については、
室町時代末期から、十二箇郷村々から代表である惣代出役を選出し、合議を行い、
自治的に費用や人夫を出す事等を取 決めていました。
その後明治時代以降、こうした管理運営は、湛井十二箇郷組合が結成されておこなわれ、現在に至っています。
















備中国分寺




2024年11月22日