2024年1月31日 水曜日 | 下津井城跡 | 鷲羽グランドホテル | ||||||
倉敷市下津井吹上 | 14:01〜14:57 | 15:16〜9:55 | ||||||
妻が温泉に行きたいと言う。
清く貧しく生きているえいちゃんが”ゆこゆこ”で探してみたら、
〜遠くない、温泉宿であること、なりより安価なこと〜
そんな温泉がありました!
さっそく”ゆこゆこ”で予約し、児島に向かって出発した。
瀬戸中央自動車道「鴻ノ池sa」(下り)で休憩。
紅梅が咲いていた。
児島インターでおりて、
下津井城跡に向かった。
下津井城跡に行く前に、是非見ておきたい銅像があった。
いつもは通り過ぎるだけだけど、いちどゆっくりと見たかった。
”星島二郎像”。
星島二郎先生は、
大地主制時代に大地主の家に生れた。
”大地主制”時代の岡山県では、
野崎家・伊原木家・服部家、それに藤戸の星島家がよく知られている。
(特殊な例として児島湾の藤田伝三郎家もあった)
星島二郎先生は六高・東大卒の、戦前では絵にかいたような岡山県のエリートで法曹から衆議院議員に転身。
大正9年(1920)〜昭和41年(1966)まで衆議院議員を勤められた。
星島二郎先生はリベラルな政治家で、公娼制度の廃止には戦前から戦後まで先頭に立った。
昭和17年の翼賛選挙では
翼賛選挙
1942年(昭和17)4月30日実施された第21回衆議院総選挙。
大政翼賛会の国民丸抱え方式。」
このとき翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選した者は七名、非推薦者は逢沢寛・犬養健・星島二郎の三名であった。
「岡山県史第12巻」 岡山県 平成元年発行
敗戦により、大政翼賛会の公認議員は戦犯同然に国会から去った。
星島先生には大きな舞台が待っていた。
それが日本の占領国家から独立国家に戻った、「サンフランシスコ平和条約」。
池田勇人さんの左隣が星島先生。
(Wikipedia)
そして、三権の長「衆議院議長」就任。
藤戸出身の先生の像が、なぜ吹上に建っているか?
それは、 ↓
「岡山県史第12巻」 岡山県 平成元年発行
瀬戸大橋架橋の推進
本州と四国を結ぶ夢のかけ橋が現実の構想として浮かびあがったのは、1955年(昭和30)5月の紫雲丸と第三宇高丸の衝突遭難事故を契機としてである。
本州・四国連絡橋架橋の候補地点としては、瀬戸大橋のほかに明石〜鳴門ルート、尾道〜今治ルートがあり、
このうち中央政財界における認識では建設大臣の河野一郎が明石〜鳴門ルート優先着工の発言を重ねていた。
巻き返し的運動が展開されることになり、
1966年(昭和41)、県庁に加藤知事を本部長とする瀬戸大橋架設推進本部が設けられ、県の組織をあげての運動の中核となった。
この時点では、瀬戸大橋の架橋候補地点は宇野―高松、日比-大槌島―高松、児 島―坂出の三ルートがあったが、
一本化することになり、1966年2月、県議会で児島〜坂出一本化が決議された。
また香川県でも、3月県議会で児島 坂出ルート一本化が決議された。
1966年には瀬戸大橋建設推進の県民運動が本格化し、
「みんなでかけよう瀬戸大橋」「ことしこそ瀬戸大橋の決まる年」「県民の熱意でかける瀬戸大橋」を標語に、運動が盛り上がっていった。
架橋争奪戦が展開され、本四架橋は政治架橋といわれるに至っていた。
1967年5月、土木学会本州四国連絡橋技術調査委員会は、 最終報告を提出して各ルートとも建設が可能と報告したが、
明石〜鳴門ルートは「多くの技術問題点が残されている」、
児島〜坂出ルートは「技術的問題は少ない」、
尾道〜今治ルートは「とくに技術的問題はない」として瀬戸大橋の優位性をほのめかした。
そして、工事の難易度、工事費、経済効果などの諸点から瀬戸大 橋が三ルートの中で最も有力視されるようになった。
岡山県ではこれをもとに活発な広報を行うとともに、 関係方面にその早期架橋を強く呼びかけた。
1969年(昭和44)5月30日に閣議決定した新全国総合開発計画では、
本州四国連絡橋公団の発足。
本四架橋の瀬戸大橋、尾道〜今治、明石〜鳴門の三ルートともに建設するとした。
つまり星島先生は、瀬戸大橋架橋には、ほとんど尽力していない。
先生は、地元へ利益誘導を考えるような(今の議員のような)レベルの低い国会議員ではなかった。次元が違う。
もひとつ言えば、
先生は世襲をするような国会議員ではなかった。
(先生の後任候補は、秘書だった六月さんが立候補した)
先生はきっと、世襲が認められる範囲は天皇家と歌舞伎役者くらいと思っていたはずだ。
架橋が見える場所に建つ像は、先生への長い政治活動への感謝の像のように思えた。
下津井城跡
2024年2月5日