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2022年7月13日 水曜日 東京都江東区富岡 富岡八幡宮 | |||||||||||||
| 飯田橋 | 川越 | 千住 | 深川 | 東京駅 | 笠岡駅 | |||||||||
| 6:04発 | 7:26〜9:24 | 11:28〜12:10 | 12:44〜13:40 | 14:51 | 19:25着 | |||||||||
東京メトロ東西線、「門前仲町駅」を出る。

深川地区は、いかにも”下町”という雰囲気を感じる街。
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「深川江戸散歩」藤沢周平ほか 新潮社 1992年発行
辰巳芸者
江戸が繁栄するにつれ、吉原以外に花街が生まれた。
深川もその一つで、この地が江戸城の東南(辰巳)に位置していたので、
辰巳芸者とも呼ばれた。
深川は吉原のような公許されていなかったが、「諸国遊所競」という遊廓番付のようなものに小結として深川仲町がランクされていたり、
さらに幕末には吉原をしのぐほどのもてようだったといわれる。
現代でも深川不動尊参道で芸者さんをみかける。
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「大江戸発見散歩」 松本こーせい アーク出版 2002年発行
吉原芸者と深川芸者
吉原では高級女郎と客の仲を取り持つために、座を盛り上げる女芸者と男芸者がが誕生した。
専門の芸者が増加して女郎の領分を侵したので、芸者の売春を禁止した。
町芸者の元祖は、岡場所の深川、深川芸者だ。
芸のみの証文を入れる者と、芸と色の二枚証文を入れる者とがいた。
深川では芸のみの芸者は半人前扱いをされた。
やがて町芸者は、遊女よりも趣のある一種の芸能売春婦として江戸各所で栄えた。
明治・日清戦争後には、かつての岡場所や鉄道停車場の近くや門前町に芸者町ができた。
芸者置屋、待合(茶屋)、芸者を呼んで宴会できる料理屋が集まる地域を「花柳界」という。
花柳界の全盛期は昭和30年代までで、新橋、赤坂、芳町、神楽坂、浅草が東都五花街といわれる。
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舗道に横綱の絵。

「富岡八幡宮」にお参りする。
”門前仲町”という地名は、この富岡八幡宮の神宮寺の門前、という由来。

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「東京都の歴史散歩(上)」 山川出版社 1977年発行
富岡八幡宮(深川八幡)
富岡八幡は神田明神・赤坂山王さん・浅草三社さまとともに江戸っ子の祭礼で有名。
辰巳の花街や木場の繁栄を背景に芝居や小説、小唄など庶民文芸にしたしまれてきた。
江戸中期、この境内で勧進相撲が行われていた。
祭礼の盛大さは、そのにぎわいで文化4年の永代橋落下事件をひきおこしたくらいである。
力士碑の裏手にある八幡橋は都内最古の鉄橋(重文)である。
富岡八幡宮の東の木場2〜5丁目はもと、木場のあったところ。
”火事と喧嘩は江戸の華”で、たびたびの火災のあと普請工事が木場の繁栄をもたらした。
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富岡八幡宮
(Wikipedia)
富岡八幡宮(とみおかはちまんぐう)は、東京都江東区富岡にある八幡神社。
通称を「深川八幡宮」ともいう。
江戸最大の八幡宮で、八月に行われる祭礼「深川八幡祭り」は江戸三大祭りの一つ。
また江戸勧進相撲発祥の神社で、境内には「横綱力士碑」をはじめ大相撲ゆかりの石碑が多数建立されている。
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手水鉢の鳳凰で、立ち止まって見る。

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「街道をゆく・本所深川」
司馬遼太郎 朝日新聞社 1992年発行
江戸と深川をむすぶ大橋や永代橋がかけられて、深川が孤島でなくなったのは綱吉の代であった。
大相撲も深川を栄えさせた。
当時、大相撲は『勧進相撲』のかたちをとっていた。
この勧進相撲が深川の富岡八幡宮にのみゆるされていたのである。
大相撲は、この八幡宮の境内から出発したといっていい。
勧進とは、寺社への寄進のことである。
建立やら修理の入費のためにひろく大衆から銭を募ることをいう。
このため、表むきは八幡宮の主催になり、監督官庁も寺社奉行だった。
富岡八幡宮の境内に入ると、社殿を過ぎてさらに奥に入ると、大相撲にちなんださまざまな碑があって、いちいちを見ているだけで楽しめる。
富岡八幡宮祭礼
富岡八幡宮の祭礼は江戸文化が熱するとともにさかんになり、
当日、江戸の市中から永代橋をわたって祭礼見物にゆく人の波はひきもきらなかった。
このため永代橋が落ちたこともある。
この大事故は文化4年(1807)8月、千五百人余もの死傷者がでたという。
「この橋勝れて高く」とあるように、江戸第一の橋といってよく、西の空に富士が見え、北には筑波山が見えたという。
この惨事は蜀山人大田南畝の在世中のことで、狂歌が残っている。
「永代とかけたる橋は落ちにけり きょうは祭礼 明日は葬礼」
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深川に住んでいた縁で、境内に伊能忠敬の銅像がある。


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「御本殿」。

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昭和天皇が東京空襲を視察した写真板が立つ。
作家の保坂正康さんが著著に、
「陛下は突然のように終戦へ舵を切った」のが、この視察。
おそらく宮城の奥深くにいて現人神という存在では、本当の情報がはいらず、
ここで自分の目で見て戦争の状況を実感したのだろう。

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「御本殿」と、その左右と後方が森。

後方の森は「御神木」と、境内図に載っている。

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じつは、この相撲に関する石碑を楽しみにして参拝に来た。

一角に相撲の碑が林立。


大関と言えば史上最強の力士”雷電”を避けて通れない。
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「雷電日記」 小島貞二編 ベースボールマガジン社 1999年発行
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史上最強の力士でありあがら『横綱』でない江戸の名大関
相撲界には、非常識と思えるようなことが、堂々と罷り通っていることが多い。
例えば、横綱の代数である。
初代明石志賀之助、二代目綾川、三代目丸山、四代目谷風、五代目小野川・・・が相撲協会の公認となり、マスコミもそれに準じている。
これはかつて、幕末最後の横綱だった陣幕久五郎が、明治に入って横綱力士たちの顕彰を志し、
東京深川の富岡八幡宮(深川八幡)に「横綱力士碑」奉建したときに始まる。
碑は本殿に向かって右に、いまもその雄姿が鎮座する。
横綱碑としてはまさに日本一といってよいものである。
裏面には、明石以下の横綱力士が、代数順に刻まれている。
この横綱歴代を選出するに当たって、陣幕は慎重の上に慎重を重ね、
吉田司家の古文書を調べ、相撲研究者の意見をきき、新聞広告まで出して、調査に万全を期したようだ。
谷風と小野川が、吉田司家から免許を得て、同時横綱に昇進したのは寛政元年(1789)11月で、以降、阿武松、稲妻、不知火・・・とはっきりするが、
谷風以前は業績が明確ではない。
その時点では決定的な史料がなく、最後は陣幕独断の要素が大きい。
深川八幡の「横綱力士碑」完成の後、
相撲研究家の間から、両国梶之助を加えるべきでなかったか?
阿曽ヶ嶽はどうした?
綾川と丸山は順序が逆ではないか?
と物言いがついたが、
今さら仕方がないという考え方が関係者を支配、
相撲協会もそれを認め、現在に至っている。
なお、この「横綱力士碑」の裏面の、歴代連名の左肩に
「無類力士」
として雷電為右衛門が刻まれている。
陣幕が”雷電さんだけは、横綱以上のお人”と別格あつかいしているのがほほえましい。
横綱以上の評価を横綱が与えているのだ。
「報土寺の梵鐘事件」
雷電の寄進した梵鐘に鋳込んが文字が、幕府を刺激して取りつぶし遭ったものだ。
雷電こと「松平出羽守家来 関為右衛門」は「江戸払い」という判決を受けた。
大木戸以内には居住が制限される刑である。
雷電日記には一行の記述もない。
涙も笑いも、すべて感情を押し殺して、「雷電日記」は淡々と、まるで他人事のように筆を運ぶ。
抱え力士は武士であり、私事ははさまないという、職務上の立場と考えた方が妥当であろう。
世にいう「め組の喧嘩」(文化2年2月)を、相撲界の内側から見た記述は参考になるし、
また文化元年6月4日の「出羽大地震」(M7.1と推測される)の直後の被災地の見聞録は、そうした関係の資料として、得がたいものではないだろうか。
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「巨人力士身長碑」まである。

これは強豪関脇の碑。
この選定はむずかしいというよりも、選ぶ側の主観で決めるだろうな。
強ければ大関や横綱になるし。

刻んだ文字が白くて目立つのが力道山光浩。
これは納得する。
確かにリキは強豪関脇だ。

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芭蕉資料館
2022年7月27日