2021年12月24日  金曜日   愛媛県宇和島市丸之内  児島惟謙銅像              
宇和島城    宇和島    八幡浜   保内    八幡浜    伊予市・郡中    松山市駅 
8:40頃    9:55   10:26・10:45    11:10〜13:43    14:08・14:30    15:09〜16:30    16:53(泊) 
                         


ホテルの朝。

これから宇和島城へ登城する。









前に見える宇和島城天守閣、あそこへ行く。










登城までの途中、2ェ所,寄るところがある。

それが「木屋旅館」と「児島惟謙像」









まず「木屋旅館」に寄る。








「木屋旅館」

宇和島でもっとも古い旅館、
もとは明治初期に「いさぎ餅」を売っていた餅屋。

「日本の城下町10四国」 ぎょうせい 1981年発行












一階は連子格子、それに防火用水が置いてある。









珍しいなあ「防火用水」、

戦時中の焼夷弾対策や、助六の水入りを連想する。













宇和島城へ登城口は2ヵ所ある。

「武家屋敷門」と「立ち上がり門」。



武家屋敷門からは2度登ったことがあるので、今日は「立ち上がり門」から登る。














立ち上がり門から登城するのは、もう一つ目的があった。

それが既述した寄り道の場所。



門の前に銅像がある。それを見に来た。






児島惟謙(こじまいけん)



今も宇和島市民の誇り。

「大津事件」の大審院長。


(Wikipedia)

児島 惟謙は、明治時代の日本の司法官、政治家。
大津事件の際には、大審院長として司法権の政治部門からの独立を守り抜き、「護法の神様」などと高く評価された。
後に貴族院議員、衆議院議員。







「その時歴史が動いた8」 NHK取材班  中央出版 2001年発行

いまから百年あまり前、
西洋近代国家の仲間入りをめざしていた日本に
ロシア皇太子ニコライがやってきた。

のちのニコライ二世、ロシア最後の皇帝である。
当時、ロシアは日本にとって大きな脅威だった。
明治24年(1891)5月11日、事件は起こった。
警備にあたっていた巡査・津田三蔵がニコライに斬りかかったのだ。

事件の対応をめぐり、日本は大きく揺れた。
ロシアとの戦争を避けるため、
犯人を死刑にしようとする伊藤博文と明治政府。
生まれたばかりの法制度を守ろうと、
死刑に反対する児島惟謙と裁判官たち。

多くの裁判官が政府の圧力に屈するなか、
法を守ることこそ裁判官の職務であると訴える児島の言葉が、
裁判官の心を揺さぶる。
明治24年5月27日、判決の日を迎えた。






「歴史誕生12」 NHK取材班 角川書店  平成3年発行

パニックは東北の山村まで広がり”国民総懺悔”の世論が形成されていった。

津田姓、三蔵名を禁止する
事件に対して謝罪しようという動きは東北の山村にも及んだ。
山形県金山町では、事件二日後に緊急村会議が召集され、条例が制定された。
一条 本村住民は津田の姓をつけてはならない。
二条 本村住民は三蔵の名をつけてはならない。

・・・

焦点となった犯人の処罰

司法省は、犯人は殺人を犯したわけではなく、傷つけただけなのだから暗殺未遂を適用するのが妥当であるという意見が示された。

政府としては何としても極刑にもちこみたい。
これに対して、政府に真っ向から反対したのが、現在の最高裁判所長官にあたる大審院長児島惟謙である。







結果は、ロシアとの関係悪化せず、欧米からは近代国家と認識され国威が高まった。





上り立ち門

城山南側の搦手道口に位置し、武家の正門とされる薬医門形式をしている。
現存する薬医門として最大級であるだけでなく、創建年代が最古の慶長期まで遡る可能性もあるらしい。


「城と城下町」 西日本城郭研究会 メイツ出版社 2011年発行



銅像を見て児島惟謙を偲んだあと、城山へ登っていった。

銅像の隣の門が「立ち上がり門」で、宇和島城への登城口になっている。









壮大な石垣が天守閣まで続いている。














宇和島城
「JR西日本・四国くるりきっぷ」 (2021.12.24)


2022年1月9日