2019年9月1日  日曜日  11:00頃
浅口郡里庄町  里庄町歴史民俗資料館



里庄町の偉人、小川郷太郎先生が欧州留学から帰った際、地元の小学校で講演している。



(左が小川郷太郎元鉄道大臣、右が原子力の仁科芳雄博士)






新庄出身の京大小川教授は、明治39年ドイツへ留学、その後オーストリア・イタリア・フランス・ベルギーと各国を歴巡した。
ある日母校新庄小学校で講演した。

「私は子供の時から郷里の山や川を見て育った。
だから山ははげたもの、川は天井川ときめていた。
この度の留学で欧州各国の山や川を見ると山は黒々としており、川は底を流れているのであります。
はげ山の下の村では何年経っても、発展の見込みが無いという事をつくづくと感じました。
諸君!
この村の近き将来ないし永遠の将来を思って、あのはげ山を真っ黒な山にしてみようではありませんか。
わが庭に植える一本の松の木があったら、その木を山へ持って行って植えてください」と。
小川教授の話は村民に大なる感動を与えた。

大正初年、毛のむら山の砂防工事の設計がたち、県と農林省の荒廃地復旧事業となった。
山へは松とサンカイ(ハゲシバリ)をいっしょに植え、過リン酸を一株五寿ずつやったところよくきいた。
谷口には石堰堤を造ったので土砂流出の憂いがなくなった。

県知事も毛のむら山に登山した。
岡山県の砂防は全国的に有名で、視察に来ると里庄村を指ざされたので、全国や朝鮮からも視察に来た。
昭和3年、農林大臣から褒章を授与された。


「里庄町誌」 昭和46年発行より転記







正面の山が、里庄町を代表する毛野無羅山。

明治時代はハゲ山。

大正時代に植林。

昭和3年には大臣表彰、植林・砂防の視察現場になる。








それにしても、毛野無羅山はなぜハゲ山だったのだろう? しかも、他の山もハゲ山であったようすだ。


山火事でもなし、段々畑でもなし、

大原焼の燃料だろうか?薪にして出荷したのだろうか?




よくわからないので「里庄町歴史民俗資料館」に行った。

さっそく係りの方に問うてみると・・・・「う〜〜ん」。









答えを諦めて館内を見てまわった。







民俗資料を展示している。(残念ながら呼び名があるだけで、説明はまったくない)














雨が降ると、祖父は長屋に置いていた↓機械で、藁縄を編んでいた。

この周辺では、福山市の引野が全国大会に優勝するくらい盛んだった。













なつかしい伝八笠。

えいちゃんちにもありました。














里庄町の「大原焼」。

平安時代に始まり、昭和60年に終焉した。今、里庄町の有志の方が再興に取り組んでいる。


















たいへん珍しいものがあった。

木造の金次郎さん。昭和8年作。

木の金次郎さんは初めて見た。







資料館に来た目的に、もう一つ聞いてみたいことがあった。


昭和43・44年頃、里庄町出身で芸名・浦田義人さんという映画俳優がいた。

日活映画の話題作でデビューし、その後何本か(またはそれ以上)に出演している。


当時、里庄町の人びとはどのように騒いだり・応援したのか様子を聞いてみたかった。


しかし係員さんの記憶は、そもそもはじめから存在がなかったようだった。







井原市金鴫寺(かなしぎじ)


2019年9月2日