2012年6月29日    金曜日  午前8:51〜12:10
笠岡市西大島



名古屋市にお住まいのKさんという方からメールがあった。










「戦時中南方で戦争を指揮されたO元大佐」についてどんな情報でもいいから、わかれば教えてほしいという依頼だった。

その元大佐でわかっていることは「笠岡」または「笠原」の出身であるという。






Kさんは6年間も、この元大佐について防衛省や国会図書館でも調べているが情報がみつからず

わずかの希望で・・・たぶん期待もなしに・・・えいちゃんにメールしたものと推測された。








えいちゃんにとって元大佐の名は初めてだったが、

手元にある資料ですぐに分った。













元大佐は現在の井原市の県主で生まれ、興譲館中学卒業後、陸軍士官学校に入学。

陸士を卒業後終戦まで軍籍にあり


昭和19年3月16日から「歩兵53連隊長」としてラバウル基地で有名なニューブリテン島で終戦まで指揮を執っている。



戦後は昭和22年5月に養家の、現在の笠岡市西大島に復員、

笠岡市会議員3期、老人会の世話役などして、昭和61年に89才で没している。













軍人の最終章は、既に日本の国防線から棄てられていたニューブリテン島で


当初は突撃!・・・して玉砕。

その後は山中にのがれ、トカゲや蛇を食べて生き延びた連隊の隊長。


棄てられた地域で、しかも制空・制海を米軍に握られ、食料は自給以外ありえなかったことが想像される。













いっぽう戦後は没年まで

農業・議員・地区の世話役などで穏やかに暮らしているようだ。













名古屋市のKさんにこの旨連絡すると、たいへん丁重なお礼のメールがあった。




Kさんは資料に名を見ることがないので、

O元大佐が戦犯で処刑された危惧までもっていたそうだ。














その翌日、

えいちゃんは元大佐の話を現地で聞きたいと西大島鳥ノ江に行った。





既に没後25年、生存していれば114才。元大佐と同年代の住民はいない。


でも元大佐と話したり、見たことのある人は多くいるはずだ。












鳥ノ江では3人(女性2・男性1)の方から話を聞くことが出来た。





結果、やはり遠い過去の人になっていた。



元大佐の家は空家だった。

元大佐の家系はたいへん頭がよく、どの子、どの孫も成績優秀だったそうだ。











元大佐の余生はのんびりしたもので、

あまり「働く」ことはなかったそうだ。




地区民からは”部隊長”と呼ばれていたそうだ、軍人時代の名残が終生あったのかもしれない。










次に石砂地区の男性(80代)に尋ねたが、

「市議をしていた人」以上の話・記憶はなかった。





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2012年7月2日