福沢諭吉 場所・場所・大分県中津市 JR中津駅 制作・辻畑隆子 1985年 城見小学校の教壇の黒板の上に額縁を掲げてあった。 それは習字で、 『天は人の上に人をつくらず』と書いてあった。 先生の話では、『人の下に人をつくらず』とつづいていて、福沢諭吉の言葉だと。 咸臨丸の話も学校で習った。 脱亜入欧 明治18年(1885)福沢諭吉は、朝鮮や中国など東アジア諸国を蹴落して 日本だけが欧米先進国入りを果たすことを国民目標として提示し、それを「脱亜」と表現した。 しかし福沢を含めて、明治の本陣がめざした「脱亜」そして「入欧」には、アジア侵略につながる方途だけでなく、 イギリスのように議会権限のつよい立憲君主制や、アメリカやフランスのような人権主権をめざすことも含まていた。 「近代日本の出発」 坂野潤治 新人物往来社 2010年発行 ![]() 福沢諭吉 天保5年(1834)〜明治34年(1901) 啓蒙思想家、教育者、ジャーナリスト。 慶応義塾を開く。 もと豊前藩士。 漢学、蘭学を学んだ後、英学に転ずる。 万延元年(1860)咸臨丸で渡米、 文久2年(1862)渡欧して各国を回る。 慶応2年(1866)『西洋事情』、 明治5年『学問のすゝめ』を刊行。 後者は20万部以上という驚異的な売れゆきとなった。 「日本の銅像」 金子治夫 淡交社 2012年発行 ![]() 「大分県の歴史」 渡辺澄夫 山川出版社 昭和46年発行 福沢諭吉と中津 『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』 という有名な文句は、明治5年に福沢諭吉が「学問ノススメ」の巻頭に道破した言葉である。 戦後ようやく日本のすみずみまでゆきわたった民主主義の根本精神を、100年も前に喝破し、 生涯それを主張し実践した諭吉は、まさに偉大な先覚者であり教育家であった。 諭吉の父は中津藩の下級武士で、大坂の中津藩蔵屋敷に勤務し、その蔵屋敷で天保5年(1834)生まれで、 3歳のとき父の病死で母とともに中津に帰ってきた。 中津では家が貧乏で下駄作りや刀剣細工などの内職に苦労し、アンマも習った。 士族の間には上士・下士の厳然たる差別があり、子供同士のあいだにまで差別があり、 門閥主義の苦渋を徹底的になめさせられた。 かれが『門閥主義は親の敵で御座る』といい、 そのを支える儒教道徳の克服に一生を捧げたのは、こうした体験からである。 撮影日・2013年2月23日 |
滝廉太郎 場所・大分県速見郡日出町 日出城跡 制作・ ![]() ![]() 撮影日・2013年2月22日 |
帆足万里 場所・大分県速見郡日出町 日出城跡 制作・ 大分県には江戸時代、小藩が多くあり、2万5千国の日出藩から帆足万里という傑出した人が出た。 ![]() (ひじまち観光情報公式サイト) 豊後三賢のひとり 帆足萬里(1778〜1852) 帆足萬里(ほあしばんり)は、 三浦梅園(みうらばいえん)・廣瀬淡窓(ひろせたんそう)とともに「豊後の三賢」と称された日出藩時代の儒学者で、 教育者として多くの子弟を育て、また政治家としても大いに手腕をふるいました。 彼は、安永7年(1778)、日出藩の家老・帆足通文の三男として、日出城下三の丸に生まれました。 豊岡小浦の脇蘭室の門に入り、ほとんど日出の地 を出ることなく独学で研鑽に努め、十数部の蘭書を読みこなすなどして、経済、物理、医学、天文などの各分野に通じていました。 萬里の学識は西欧の諸学者に 比肩するも のであったといわれます。 天保3年(1832)、13代藩主・木下俊敦に請われて家老職につき、藩財政の再建にも功績を残しました。 天保13年(1842)には私塾「西?精舎(せいえんせいしゃ)」を開き、多くの子弟を教育しました。塾生は多い時は130人余りいたといわれています。 西?精舎があった場所(現・南畑地区)には、現在は記念碑が建てられており、これは明治時代に地元の人々が萬里を讃えて建立したものです。 嘉永5年(1852)、75歳で亡くなり、日出町佐尾に「文簡帆足萬里先生墓」と刻まれた墓碑が、日出城に向けて建てられています。 墓碑を見ると所々が欠けているのが確認できます。 これは萬里の学識にあやかるため、お守りとして持ち帰る者が後を絶たなかったためといわれています。 墓は昭和33年(1958)に大分県史跡に指定されました。 毎年6月14日の命日には、萬里の墓所にて忌辰祭が行われ、「萬里先生讃歌」が合唱されます。 代表的な著書に、天文・物理から生物、人種・言語に及ぶ科学の体系書『窮理通(きゅうりつう)』をはじめ、 政治や社会体制を論じた政治書で、吉田松陰も目を通したといわれる『東潜夫論(とうせんぷろん)』など多数の著書があります。 ![]() 撮影日・2013年2月22日 |
大友宗麟 場所・大分県大分市 JR大分駅前 制作・富永直樹 設置・昭和57年 ![]() 「NHK歴史と人間」 日本放送出版協会 昭和53年発行 大友宗麟 大友家というのは、九州の北部の守護職。 家柄の古い名門として鳴らした家なんです。 大友宗麟が歴史上に名前を残しているのは、キリシタン大名という肩書によって、かろうじて名前が残っているんじゃないかという気がいたします。 洗礼を受けたのが49歳で、亡くなる58歳まで10年に満たない歳月です。 フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来まして、 それから布教のためには、天皇の許可を求めるのが一番いいだろうといのうで、京都にのぼろうとする。 その途中に山口によります。 ポルトガルの難破した船を宗麟が助けて、ポルトガル人に人気があった。 宗麟も縁故を結びたくて神父さんを招いた。 表面は神父さんたちと仲良くして、本当は南蛮人がもってきた鉄砲とか貿易、その利益のために仲良くなる。 両方ともギブ・アンド・テイクの関係です。 30代初期になると、頭まるめて、宗麟になってしまう。 初めてザビエルに会ってからキリシタンの洗礼受けるまで約30年近くかかっています。 武将としても勇名をはせたような実績はないようです。 政治的な手腕の方はあったんじゃないでしょうか。 天正7年、4人の少年使節をローマの本山に送ったことですね。 その遣欧使節はヨーロッパで非常に歓迎されたんです。 けれども7〜8年を費やして日本に帰ったときは、もう秀吉が天正15年に有名な禁教令をだしたあとですしね、 風向きが変わってますから派遣した効果はなかったんです。 ただ、その時に印刷の機械を日本に持ち帰っているんです。 それから長崎や天草に活版所を作りまして、いろんな印刷をやったわけです。 『平家物語』や『イソップ物語』、翻訳して出版しているんです。 ![]() 大友宗麟 享禄3年(1530)〜天正15年(1587) 安土桃山時代の武将。キリシタン大名。 豊後出身。 天文19年(1550)豊後・肥後の守護職を継承。 のち九州探題となり全盛時代をつくる。 ザビエルを招いてキリスト教を受容し、西洋文明の移植に努めるとともに、貿易の利を収める。 自らも受洗、少年使節団伊藤マンショらをローマ教皇に派遣した。 「日本の銅像」 金子治夫 淡交社 2012年発行 撮影日・2013年2月21日 |
| xxxx像 場所・場所・大分県xx市xx町 制作・ 撮影日・xx年xx月xx日 |
作成・2021年10月11日 追記・2021年10月20日