松浦隆信の像 場所・長崎県平戸市 制作・ ![]() 南蛮貿易を始めた、肥前の戦国武将。 (Wikipedia) 松浦隆信 松浦氏の分家の一つである平戸松浦氏の生まれで 平戸には明の商人や(中国商人を庇護する)中国人の海賊(後期倭寇)が多く住んでいた。 隆信は大友義鎮に報告して、ポルトガル貿易(南蛮貿易)が開始された。 天文19年(1550年)、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが布教を断られた鹿児島から平戸にやってきた。 布教活動を許したので、1553年から1561年までの間、ポルトガル船は毎年来航するようになり、平戸は中心交易地として栄えた。 隆信は鉄砲や大砲などの武器を率先して購入した。 しかし宣教師を厚遇したが、信者の拡大は地域に軋轢を生んだ。 ポルトガル人が殺傷される事件もあり、ポルトガル船は大村純忠の支配する横瀬浦に移ってしまった。 長崎港が本格開港されるに及んで平戸のポルトガル貿易は終焉した。 一方で、貿易による巨万の富を築き上げた隆信は、領内でも鉄砲の製造を命じ、 火薬の備蓄や、鉄砲足軽の訓練に勤しんで、軍備を拡大した。 元亀2年(1571年)、壱岐を支配下に置いた。 天正15年(1587年)には豊臣秀吉の九州平定に参陣。 隆信は、初めて京に上った際には秀吉に茶讌を所望されて、千利休と3人で、それぞれの茶器を披露した。 文禄・慶長の役には当主たる息子が出征。 文禄2年(1594年)、壱岐や五島列島と朝鮮間の兵糧米の輸送の監督を果たした。 享年72。 隆信は、弱小勢力に過ぎなかった平戸松浦氏を戦国大名へと躍進させて、 近世への存続の道を切り抜けさせた名君であり、松浦氏の基礎を築いた。 ![]() 撮影日・2012年5月11日 |
じゃがたらお春 場所・長崎県平戸市 制作・ ![]() ジャガタラお春 「長崎県の歴史」 瀬野精一郎 山川出版社 昭和47年発行 ジャガタラ文 日本人が南洋方面に渡航して貿易や移住をはじめた戦国末期から、 江戸初期の鎖国が完成して海外との往来がまったく禁止されるまでの約100年間に、 南方に渡航した日本人の延べ十数万人、海外に移住したものは7.000人〜10.0000人であったと推定されている。 マカオ・フィリピン・ベトナム・カンボジア・タイ・ビルマ・マライ半島・インドネシア諸島・台湾などが主であった。 移住民は九州出身者が約7割を占め、なかでも長崎県下の出身者が全体の5割をしめていたものと推定されている。 しかし江戸幕府の鎖国政策によって、後続移住者が断たれ、 すでに移住していた日本人の帰国も禁じられたので、 日本人の南洋における活動も自然と終息せざるをえない羽目におちいった。 さらにオランダ人と日本人の女が結婚し混血児が生まれた場合は、 父であるオランダ人といっしょに、母子ともに国外追放することになった。 国外に追放されたものや海外に在留して帰国できなくなった日本人は、 文通も禁じられていたが、後に緩和され、長崎奉行が検閲して、キリスト教に関係ないものに限り肉親に手わたすことが許されるようになった。 追放されたものは、当時オランダ領であったジャガタラ(現在のジャカルタ)に在留していたものが多かったので、 これらの追放者から日本の肉親宛ての手紙は”ジャガタラ文”と称された。 ジャガタラに追放された当時14歳の『お春』という少女が『おたつ』という友人に宛てたジャガタラ文は、望郷の念を切々と訴えている。 千はやふる、神無月とよ、うらめしの嵐や、まだ宵月の、空も心もうちくもり、時雨とともにふる里を、出でしその日をかぎりとなし、又、ふみも見じ、あし原の、浦路はるかに、へだゝれど、かよふ心のおくれねば、 おもひやるやまとの道のはるけきもゆめにまちかくこえぬ夜ぞなき・・・ あら日本恋しや、ゆかしや、見たや 。 じゃがたら はるより ![]() 撮影日・2012年5月11日 |
フランシスコ・ザビエル 場所・長崎県平戸市 制作・ ![]() ザビエルはなぜ日本にやってきたか 天文18年にザビエルがはじめて鹿児島に着いて、それからキリシタン・バテレンというものが、 日本の社会に大きな影響を及ぼした。 それから約百年、寛永16年三代将軍家光の鎖国でいちおうカタがついた。 ザビエルは印度ゴアにきてから、南アジアの各地を布教して歩いた。 東インド地方で非常な成功をおさめたものの、文化レベルが低いのを不満に思っていた。 そうして1547年マラッカで鹿児島のヤジロウという日本人にはじめて会い、 日本人の文化的、知的の高さに非常に引かれ、日本こそ自分の布教するところだと感じた。 ヤジロウは、海賊船と関係ある、八幡船というか倭寇と関係ある、武士か町民か、よくわかりません。 海商だったようです。フロイスとはゴアで面識があった。 ザビエルは日本語は知らないので、そのお説教を日本語に直して教える。 むずかしいのは宗教用語です。 その通訳を最初にしたのがヤジロウだった。 のち「ヤジロウの無学のため、最初の教理書は日本人の物笑いの種となった」。 初期のキリシタンの教えは、珍奇なものとか、何か新しいムードをもったような感じで受け容られてきた。 ところが根を下ろすような形になると、当然いままでの宗教とぶつかる。 いちばん積極的なのは禅宗です。 種子島にポルトガル人が初めてきて、日本を発見し、航路を発見し、 日本貿易が非常に利益があることもわかった。 毎年のようにポルトガルの商船が九州各地の港に入ってきた。 またザビエルにつづく宣教師もきた。 宣教師を保護しない大名の湊には入港しないので、大名も保護した。 南蛮船が来れば京都や大坂の商人も来る、海外からの商品を手に入れようとする。 商品は中国の生糸や絹織物が主だった。 信長は九州を平定していなかった。 毛利はキリシタンに反対している。 少なくとも中国を平定するまでは、九州はそっとしておく。 つまりキリシタンに好意的な態度を見せておく。 平定したら態度を改める・・と思います。 主君のために命を捧げる、のではなくて、神のために死ぬならば極楽に行けるという、殉教の考えが日本の為政者にとっては非常に恐ろしいものになってくる。 それが衝突の深い原因だったのではないか、と考えております。 「歴史よもやま話・上」 池島信平 文春文庫 1982年発行 ![]() 撮影日・2012年5月11日 |
| ハウステンボス 場所・長崎県佐世保市 制作・ ![]() ![]() 撮影日・2012年5月10日 |
作成・2021年10月11日 追記・2021年10月15日