高杉晋作騎馬像 場所・山口県下関市長府 制作・1972年(昭和47年) 幕末長州藩士。 1864年(元治元年)12月、功山寺で高杉晋作が、力士隊・遊撃隊らわずか80人程度で挙した瞬間を表した像。 桃型の兜を顎に掛け小具足に身を固めた騎馬像。 「日本の銅像完全名鑑」 廣済堂 2013年発行 ![]() 高杉晋作 天馬空を行く、一代の風雲児 「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然(しゅうもくがいぜん)、敢えて正規するものなし」 生死を賭して戦かった伊藤博文の表現。 徳川300年の世に、最初に反撃の口火を切ったのも彼である。 一代の風雲児とも革命児ともいえる。 高杉家のひとり息子晋作が、新しい人間に生まれ変わっていくのは吉田松陰との巡い会いだ。 21歳の時松陰が伝馬町で斬られた。 その年に結婚した。 文久2年(1862)上海へ行く。 文久3年(1863)8月18日の政変。 元治元年(1864)6月池田屋事件、7月蛤御門の変(金門の変)、8月四か国艦隊の下関攻撃。 講和の交渉役に命ぜられる。 第二次長州征伐の軍を、自ら先頭に立って打ち破っていく。 その途中に病に倒れた。 慶応3年4月14日、29歳だった。 「日本史人物列伝」 奈良本辰也 徳間文庫 1988年発行 ![]() 「歴史と小説」 司馬遼太郎 集英社文庫 昭和54年発行 幕末の事 なにをくよくよ川側柳 水の流れを見て暮らす という唄をつくった長州人高杉晋作ほど飲んで遊んだ男もなかったであろう。 高杉にとって、酒、革命、女は、彼の血が要求している等価値のものであった。 かれは乱世に生まれて英雄となった。 高杉は藩庁から三千両の洋行費をせしめ、子分の伊藤俊輔(博文)をつれて下関まで出かけた。 金がある。つい遊んだ。 芸者末社を総揚げにして連日連夜の大さわぎとなった。 豪遊が藩庁に聞こえ、同志の野村靖之助が、わしの諌止をきいてくれねば腹を切る、といった。 「立派に切れ、おれが介錯してやる」 野村は退散、手がつけられなかった。 さらに長崎に行った。 長崎でも飲み、ついに洋行費は一文もなくなった。 が、英国が長州を応援する意思があることを知った。 この事が高杉に別な思考方法を与えた。 倒幕の可能なことを知った。 金の工面がついたころ、高杉は長崎でオテントサマ号という軍艦を、藩にもことわらず、勝手に買い込んだ。 幕府の第二次長州征伐のとき、丙寅丸と改称して大島郡の沖合で幕府軍艦と戦い、さらに小倉城攻撃に威力を発揮し、 ついで鳥羽・伏見の戦いの後討幕軍の海上輸送に大いに役立った。 がそのときは高杉は病死していた。 累年の奔走、戦闘、酒、女がたたったのである。 この男は風邪一つひかぬ壮健な体をもっていたが、不養生が過ぎた。 父の小弥太が「遺言はあるか」と問うと別にありません、といい 料紙と筆をとって辞世の歌を書きはじめた。 面白きことも無き世を 面白く、・・・・・・・・・ とまで書いたが、あとは体力がつきた。筆を落とした。 直後に絶命している。 ![]() 長府の街並みは萩に似て歴史があり、町歩きが楽しい。 「歴史よもやま話下」 池島信平編 文春文庫 1982年発行 高杉晋作 奇兵隊は当時としては斬新なものでした。 農民、あるいは一般の町民、そうゆうものまで軍隊に編成していくというのは、 新しい発想をもっている。 上海に行って長髪族の乱(太平天国の乱)を見、 また西洋人がわがもの顔でふるまっているのを見、 うかうかしてると日本は大変なことになると思った。 高杉というのはとにかく弟子を養成するのがうまかった。 山県なんかを養成しているのですね。 奇兵隊の戦法が、第二長州征伐の時山県によって成功しています。 撮影日・ 2015年2月20日 |
雪舟 場所・山口県山口市香山町 瑠璃光寺 雪舟 雪舟は、35歳の享徳元年(1452)ごろ、京都から山口へやってきた。 なぜ京都を去ったかはわからない。 雪舟が居をうつした当時の山口は、人口約1万、防長二国から近接に勢威をほこる守護大名大内政弘の居城で、”西の京”とよばれた山口には、 大陸貿易を背景とする経済力にあわせて、文化に対する理解と関心のふかい大内政弘の庇護による文化的雰囲気があったわけである。 山口へやってきた雪舟は、遣明船で待望の中国にわたり、3年の間遊学し『師は我に在って人にあらず』の確信をいだいて帰国した。 雪舟は、山口や北九州で、そして大内氏とむすんだ石見益田氏の益田で、 それぞれ意欲的な芸術活動にとりくんだのである。 「島根県の歴史」 内藤正中 山川出版社 昭和44年発行 ![]() 撮影日・2014.年7月12日 |
大内弘世騎馬像 場所・山口県山口市香山町 瑠璃光寺 制作・作者不詳 設置・昭和55年 山内氏第24代当主として山口市で、京の都を模した町造りをはじめ、大内氏繁栄の基礎を固めた。 1980年に山口市政施行50周年記念として建立された。 「日本の銅像完全名鑑」 廣済堂 2013年発行 ![]() 大内弘世 ?〜1380 南北朝時代の武将 周防の豪族出身、正平18年(1380)ごろ、幕府と和し、周防・長門両国守護となる。 私貿易で巨富を得たらしく、将軍近臣以下に銭貨や唐物を与えたという。 本拠を大内村から山口に移し、山口発展の基礎を築いた。 「日本の銅像」 金子治夫 淡交社 2012年発行 ![]() (ニコニコ大百科) 大内弘世(?〜1380)とは、 南北朝時代から室町時代にかけて活躍した武将である。 1358年には隣国長門に侵攻し、北朝守護の厚東義武を九州に追い落として制圧したのである。 幕府は大内弘世に周防だけでなく長門守護職も認め、1363年に彼を恭順させることに成功したのである。 同年には山名時氏も幕府に帰順し、西国が幕府の勢力圏へと再び変じたのである。 こうして周防・長門をおさめた大内氏であった。が、幕府から距離を置くようになる。 息子である大内義弘とは、親子関係にしこりを残したまま大内弘世は亡くなった。 撮影日・2014.年7月12日 |
重宗雄三 山口県岩国市 ![]() (Wikipedia) 重宗 雄三 (しげむね ゆうぞう) 1894年(明治27年)2月11日 - 1976年(昭和51年)3月13日)は、昭和期の政治家、実業家。参議院議長を3期9年間にわたり務めた。山口県岩国市出身。 ![]() 撮影日・2009年5月23日 |
作成・2021年10月10日 追記・2021年10月14日